「戦争で頭がおかしくなってしまった」
西尾は空襲後、岐阜に疎開したが、しばらく言葉が出なかった。あの頃は全く笑わなかったと後に聞いた。
学校に行くのを極端に恐れるようになった。「学校と空襲が結びついてしまった。登校すると、その間に両親が死んでしまうという思いにとらわれたんです」。敗戦の数カ月後、父と祖母が相次いで病や老衰で亡くなった。
戦後、西尾は苦労しながら大学に進学し、公衆衛生学を学んだ。獣医師の資格を取り、国立予防衛生研究所(現・国立健康危機管理研究機構国立感染症研究所)の研究員になった。ウイルスを研究し、国際学会で論文を発表したこともある。仕事に没頭すると、恐ろしい記憶を忘れられる気がした。
32歳で長女を出産した。助産師に「太ったかわいい女の子ですよ」と赤ん坊を渡された瞬間、「この子は明日、命があるのだろうか」という根拠のない不安に襲われた。3年後に次女が生まれた時も、同じ感覚に陥った。
「戦争で頭がおかしくなってしまったと思いました。でも、誰にも言えなかった」。西尾は悩みを心の内に抑え込んだ。
戦後は、地下室の記憶に苛まれ続けた。そのため、戦争や空襲に少しでも関係するものは、徹底して避けるようになった。後年、PTSDという診断名が知られるようになった時、臨床事例を読んで驚いた。自分の長年の苦しみが、PTSDの主な症状の一つ、「回避症状」にそっくりだったからだ。
定年退職後は、空襲の経験を徐々に人に話したり、趣味の絵で表現したりできるようになっていった。「自分が語らなければ、誰が言うのか」という使命感もあり、語り部の活動も始めた。
そうした活動を続ける中で、西尾は、空襲で負った心の傷をやっと癒やすことができた、と思っていた。空襲のトラウマは過去のものになったのだと、自分では思い込んでいた。
しかし、それが錯覚だったのだと、西尾に思い知らせたのが、ロシアによるウクライナ侵攻の光景だった。
「生き延びても心は壊れる。そのことを戦後、誰も見つめてきませんでした」。それがただ残念だ、と西尾は語気を強めた。
文/後藤遼太、大久保真紀