地下室で聞いた断末魔の声
1945年3月9日は、西尾にとっては5歳最後の日だった。翌日に6歳の誕生日を控え、西尾はワクワクしていた。
戦時下の食糧難にもかかわらず、母はどこからか手に入れた一握りのもち米と小豆で赤飯を用意してくれた。ちょうど、家財道具を疎開させる手伝いのために、いとこが岐阜から東京の下町にある西尾の家に来ていた。いとこは19歳。一人っ子の西尾にとって、優しくて美人の「お姉ちゃん」は憧れだった。トイレまでついて歩き、一緒の布団で眠った。
夜、空襲警報にたたき起こされた。開業医で警察医でもあった父は家を飛び出して行ったが、なぜかすぐに戻ってきた。そして「東京はもうおしまいだ」と叫ぶと、向かいの国民学校へ家族をせき立てた。学校には400人が入れる防空壕があった。
玄関先で西尾が見上げると、空いっぱいに焼夷弾が輝き、路上は逃げる人でごった返していた。少し先を走っていた、いとこと住み込みの看護師が校門に飛び込んだ途端、運悪く防空壕は定員になった。
国民学校の壕に入れてもらえなかった西尾は仕方なく、母に連れられて近くの工業学校まで走り、校舎の地下室へ駆け下りた。部屋は真っ暗で、床には大きな水たまりがいくつもあった。震えるほど寒く、女性と子どもばかり数十人が息を潜めて立っていた。
しばらくすると、扉の隙間から煙が流れ込み始めた。西尾は徐々に息苦しくなり、母の背中でグッタリした。もうろうとしながら、ドンドンドンと鉄扉をたたく音を聞いた。女性たちの「戸を開けて」「中に入れて下さい」と哀願する声が続いた。
「あんなに必死に叫んでいるのだから、開けてあげればいいのに」と、西尾は薄れゆく意識の中で思ったが、母も周りの大人も押し黙ったままだった。「開けろ!」「入れろ!」。そのうちに外の声は荒々しくなり、やがて断末魔の絶叫に変わっていった。記憶が途切れた。
西尾が6歳になった朝の午前5時半頃だった。気づくと、地下室にいる大人たちが扉を前に四苦八苦していた。押しても引いても動かないようだった。しばらくして数人がかりでようやく開けることができ、皆で外に這い出した。
扉の外には、黒い丸太のようなものが、西尾の背丈より高く積み重なっていた。母は西尾に「仏様になったのよ。お祈りしなさい」と言い、震える手を合わせた。そして、西尾を背負い、路上を埋め尽くす黒こげのものをまたぎ、つまずきながら、自宅へ向かった。
自宅の焼け跡に、父が立ち尽くしていた。西尾と母を見ると、父はウオーッと獣のような声を上げて泣いた。髪は焦げ、手にしていた毛布は火の粉で無数の穴が開き、まるでレースのようになっていた。西尾が大好きだったいとこの行方は知れなかった。家の向かいの国民学校は焼失し、防空壕では「200人が蒸し焼きになった」と後で聞かされた。
これが、西尾が経験した3月10日の東京大空襲だった。西尾の自宅付近が米軍の「第1目標」の中心地だったと知ったのは、数十年後だ。