2,500人の若者が昼夜通して約15時間盛り上がる
前半はアマチュアによるステージで、歌いたい人なら誰でもステージに上がることができた。ところが希望者が予想以上に多くて後を絶たず、プロによる後半のステージが始まったのは深夜0時頃になった。
歌舞劇団の田楽座による民謡で幕を開けると、遠藤賢司、岩井宏、五つの赤い風船、中川五郎、上條恒彦とライブは続き、深夜にもかかわらず会場は大いに盛り上がった。
早川義夫がいたジャックスは、この日がバンドとして最後のステージだったので、鬼気迫る演奏だったという。
その後は高田渡がバトンを引き継いで、日が昇り始めた頃になって、ようやく最後となる岡林信康と高石ともやの出番となった。
それが終わってアンコールになると、他の出演者も再びステージに上がって歌い始め、終了したのは午前9時過ぎだった。
地元の人たちの手によって実現した「全日本フォークジャンボリー」は評判となり、翌年の第2回には約8,000人、翌々年の第3回はさらにその3倍ほどの大観衆が集まることになった。
しかし、規模が膨らむにつれてプロダクションも参加するようになり、笠木が掲げた「自前でやろう」という本来の目的は希薄化していかざるを得なかった。
結局のところ、第3回をもって「全日本フォークジャンボリー」は幕を閉じたのである。
一方で笠木は自ら詞を書いて歌うようになり、「歌った以上はそのように生きろ! やれないことは歌うな!」という言葉を胸に刻んで、2014年12月22日に77歳で亡くなるまで、フォーク・シンガーとしての人生を全うした。
そんな笠木が「全日本フォークジャンボリー」を終わらせた1971年に歌詞を書いたのが、『私に人生と言えるものがあるなら』だ。
これは「Faded Roses」というアメリカの民謡を訳詞した楽曲だが、歌詞にある「あの夏の日々」の中には、フォークジャンボリーでの熱い日々が蘇ってくる。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP
参考文献:『日本フォーク紀 コンプリート』黒沢進(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『アエラ・イン・フォーク No.16 4/5号 (アエラ臨時増刊)』(朝日新聞社)