特に注目すべきは、田久保市長が用いた言葉の選び方 

偽物であった場合、有印私文書偽造という犯罪行為に該当する可能性すら浮上する。田久保市長の行為は、市民の代表である議会を欺き、その権威を著しく貶める暴挙に他ならない。一瞬だけ書類を見せてすぐに引っ込めるという行為は、誠実な説明とは程遠い。

卒業証書に関する疑問は、物理的な書類の提示方法だけに留まらない。記者会見での応答には、言語を巧みに利用して、既成事実を作り出そうとする意図が見え隠れする。記者から「議長に見せた書類は卒業証書だったのか」と核心をつく質問が浴びせられたが、田久保市長は明確な回答を避け、論点をずらし続けた。

特に注目すべきは、田久保市長が用いた言葉の選び方である。

「私としては、これで自分の経歴が分かっていただけるかなという意味でお見せした」

「卒業を証明するものであろうと思ったので私も他の方にお見せした」

これらの発言は全て過去形である。「お見せした」「思った」。この過去形の多用は、聞き手に対して「提示という行為は既に完了している」という印象を植え付けようとするレトリックだ。

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提示された書類が一体なんだったのかという、問題の根幹部分には一切触れず

あたかも、過去の時点で十分な説明と証拠の提示は済んでおり、今更それを問うのはおかしい、と言わんばかりの態度である。提示された書類が一体なんだったのかという、問題の根幹部分には一切触れず、「提示した」という行為の存在だけを繰り返し強調する。

実際に十分な確認の機会を与えていないにもかかわらず、「見せた」という過去の行為を盾に、現在の説明責任から逃れようとしている。これは、言語による事実の事後的な構築であり、極めて不誠実な情報操作だ。

記者会見という公の場で、市民への説明責任を果たすべき立場の人間が、言葉を弄して事実を歪め、その場を乗り切ろうと画策する。この態度は、市長という職責に対する冒涜であり、有権者への裏切りである。田久保市長は、物理的な「ちら見せ」と、言語的な「提示済み印象」の形成という二重の欺瞞工作によって、この危機を乗り切れると本気で考えていたのだろうか。その浅はかさと市民を軽んじる姿勢には、怒りを通り越して、もはや呆れるほかない。

田久保市長の一連の行動は、単なる「嘘」という言葉では捉えきれない、より複雑で悪質な「欺瞞」の構造を持っている。