健康な優越性の追求
ここでアドラーは、優越性の追求と劣等感について、努力し成長することへの刺激になる健康なものと、そうでないものに区別します。たとえ劣等感を持っていても、それを補償する努力をするのであれば、健康なものだと考えるのです。
私は50歳のときに心筋梗塞で倒れ入院したことがあります。今は早期離床といって、病気の治療をする一方で、できる限り早くリハビリを始めます。
心臓リハビリというプログラムに従って少しずつ歩く距離を増やしていくのですが、最初は病室の外には行かずに、ベッドから降りて立つところから始めました。
思うように歩けませんでしたが、日増しに歩ける距離が長くなりました。歩けない状態から歩けるようになりたいと思い、リハビリに励むことは、アドラーが言う健康な優越性の追求です。
しかし、私は歩けないことに劣等感を持っていたわけではありませんし、劣等感を克服するためにリハビリに励んだのでもありません。たしかに長い距離を歩けませんでしたが、病気のために「ただ」歩けないだけだったのです。
病気のために歩けなかった状態を脱して歩けるように努力をしました。しかし、アドラーが言うのとは違って、私は劣等感を克服するために優越性を追求したわけではありません。
病気になったら、治療を受けたりリハビリを受けたりして元の健康な状態に戻ろうとしますが、他の人と比較して自分が劣っていると感じる必要はありませんし、他の人よりも優れるためにリハビリの努力をするわけでもありません。
また、若くないことに劣等感を持つ人はいるでしょうが、歳を重ねることに誰もが必ず劣等感を持つわけではありません。いろいろなことができなくなるのは本当ですが、それをいうなら生まれたばかりの子どもは何もできません。
しかし、何もできないからといって、乳児や幼児は劣等感を持ちません。もっとも子どもの場合、もう少し大きくなると、大人から子ども扱いされて劣等感を持つことはありますが。