母は料理ギライなのに息子は料理人に
キンバルは小さいとき、食べ物がとても好きだった。12歳のとき、食事係になり、家族のために料理を始めた。おいしいものを食べるには自分がつくらないとだめだとなれば、進んでつくった。
キンバルは、わたしと一緒に食料雑貨店に行くのが好きだった。一緒に市場へ行くと、キンバルはピーマンを手にしてにおいをかいだ。わたしはよく、「いったい、あなたはどこから来たの?」ときいたものだ。わたしは料理に喜びをまったく見出せなかった。子どもたちには健康によいものを食べさせたけれど、ごく簡単なものだ。ピーナッツバターのサンドイッチ、豆、それにニンジン。
キンバルは、初めて見た野菜を選んでは、それを使って料理した。また、その日にとれた新鮮な魚を見つけては、トマトやレモンやタマネギと一緒に焼いた。生まれながらの料理人だった。
キンバルが得意としていたのは、野菜料理。野菜は手頃な値段で手に入れられるので、理想的だった。キンバルがつくったものは、すべておいしく、わたしのさえない料理よりはるかにすばらしかった。
家族でトロントに移ると、キンバルは、イーロンがガールフレンドのためにつくれるようにと、カニを使ったニョッキ・アルフレードのつくり方を教えていた。
最近になってキンバルから、自分がどんな仕事を選ぼうとも、ママはいつも応援してくれると思っていたと言われてうれしかった。
キンバルは経営を学び、インターネットで起業し、ニューヨークのフレンチ・カリナリー・インスティテュートで料理を学んだ。わたしはよく、キンバルの勤務時間が終わる午後11時に学校の食堂に行って、一緒に食事をした。
そして、キンバルがコロラド州ボルダーに移って、居抜き物件で〈ザ・キッチン〉というレストランを開いたときは、それまで使われていたコンロと冷蔵庫をぴかぴかに磨き上げた。残念ながら、どちらも取り替えられてしまったけれど!
キンバルは、とても長い道のりをたどった。自分の子どもたちとタイヤのチューブでそり遊びをしていたときの事故で首の骨を折ると、たっぷり時間をかけて、人生でほんとうにやりたいことについて考えた。
そして、情熱を注げるのはレストランだとわかり、アメリカの真ん中で産地直送食材のレストランを開いて、非営利団体〈ビッグ・グリーン〉を立ち上げた。行政の援助が行き届かない学校で畑仕事を教える活動だ。
また〈スクエア・ルーツ〉という会社も起こして、駐車場の中古コンテナで畑をつくって都会型農家になる方法を若い起業家に教えはじめた。
キンバルが12歳のころに大好きだったことを考えると、まさに理にかなっている。