茅ヶ崎で最も早く洋楽のレコードをステレオで聴けた桑田家

桑田佳祐は幼い頃から、あらゆるジャンルの音楽に囲まれて育った。バーや割烹、麻雀荘などを経営する父親は、スウィング・ジャズとマンボ、それに歌謡曲が大好きだった。

家には沢山のLPレコードと大きなステレオ、それにオープンリールのテープ・デッキまで揃っていた。

茅ヶ崎では最も早く洋楽のレコードをステレオで聴ける家、それが桑田家だったという。

もうひとつ、1964年からビートルズに夢中になった4歳年上の姉、えり子の影響もまた大きかった。

31歳頃の桑田佳祐が写る、ソロデビューシングル『悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)』(1987年10月6日、ビクターエンタテインメント)のジャケット写真
31歳頃の桑田佳祐が写る、ソロデビューシングル『悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)』(1987年10月6日、ビクターエンタテインメント)のジャケット写真

夜の時間帯に両親が水商売で働いていた桑田家では、小学校が終わって帰宅したえり子が、母親代わりとなって幼い弟の面倒をみた。

夜遅くまで二人一緒に過ごす時間、えり子は毎晩のようにビートルズのレコードを弟と一緒に聴いていた。

やがて姉に付き合って聴いていた期間も終わり、自分の意思で買ったアルバムの『リボルバー』や『ラバー・ソウル』を聴いたとき、桑田は初めてビートルズの音楽にショックを受けたという。

写真/Shutterstock
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だからビートルズが音楽的に大きく変化した1967年以降のロックから、強く影響を受けたのだという自覚を持つようになった。

しかし、50代になってからはそうしたロック体験よりも前に、テレビから歌が聴こえていた幼い頃のポップス体験が、実は自分の音楽の本質だったとも語っている。

ディープ・パープルも悪くないけど、やっぱり自分の本質はロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』や坂本九の『上を向いて歩こう』なんだよって。
(総力特集 桑田佳祐クロニクル 『SWITCH』2012年7月号)

アメリカンポップスにおける不朽の名曲、ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』は、1963年10月に全米チャートで最高2位のヒットを記録した。

そのわずか3か月前には、坂本九が日本語で歌った『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』が、3週連続で全米チャートの1位に輝く快挙を成し遂げていた。

そう考えると『Act Against AIDS '00 「桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング」』と、『桑田佳祐Act Against AIDS 2008 昭和八十三年度! ひとり紅白歌合戦』の両方で、『上を向いて歩こう』が歌われていたことは当然だった。

『上を向いて歩こう』はアメリカで『SUKIYAKI』と呼ばれ、ビルボード・チャート1位に輝いたのは1963年6月15日だ。写真は2023年6月発売された『THE BOX of 上を向いて歩こう/SUKIYAKI』(UNIVERSAL MUSIC)より
『上を向いて歩こう』はアメリカで『SUKIYAKI』と呼ばれ、ビルボード・チャート1位に輝いたのは1963年6月15日だ。写真は2023年6月発売された『THE BOX of 上を向いて歩こう/SUKIYAKI』(UNIVERSAL MUSIC)より
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そして、それらのイベントで歌われた歌の数々こそが、そのまま日本のスタンダードとして音楽史に残る作品だったことに気づかされる。

かつての名曲の数々に生命を吹き込み、ときには蘇らせて次世代へと継承する。

そんな役割を果たした桑田佳祐の功績は、日本の音楽史においてとてつもなく大きい。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル/『LIVE TOUR 2021「BIG MOUTH, NO GUTS!!」(通常盤/Bru-lay)』(2022年4月6日発売、ビクターエンタテインメント)