「平穏な死」を捨てる
いまの社会では、性やセックス、お金などについて大っぴらに話すことが推奨されません。特に日本では過剰というほどに口にすることがタブー視されている。でも本来はこうした話題にこそ、人間の生きがいややりがい、人生の喜びの本質が詰まっているものです。
タブー視される数々のトピックスのなかで、特に僕が気になっているのは「死」について。
現在の日本では、あらゆるシーンで「死」に関する話題が遠ざけられます。物理的にも「死」に触れる機会がまるで良くないものかのようにされています。しかし本当は、「死」を在るものだと実感することでしか「生」の価値は感じられません。
「死」に対して自分なりの意見を持ち、その先をきちんと見据えて生きていくほうが、人生の意味や意義は見出しやすくなります。そこから「人生をどうやって生きていこうか」という視点が生まれてくるはずです。
あまり気持ちの良い話ではないので普段はしませんが、僕が「死」について強烈に意識した話をしたいと思います。
僕の祖父は自殺しました。首吊り自殺でした。僕は当時20歳。関東の大学に行かせてもらって広島を出て2年ぐらいが経ったころ。都会の生活にも慣れはじめ、なんとなく生きることにも怠惰になってきていた時期。急に電話が鳴りました。
「え、じいちゃんが死んだ?」
祖父は、痴呆がはじまった祖母と島の長屋のような家にふたり暮らしをしていました。これは想像でしかないですが、痴呆のばあちゃんの世話をするのに疲れて首を吊ったのではないかと思います。
じいちゃんの死体が発見されたときには首を吊ったじいちゃんは少し腐りはじめていて、その横にはボケたばあちゃんが寝ていたと聞きました。
直接見ることはできませんでしたが、想像しただけでもなんとも悲惨な状況です。
そこから急いで広島へ帰り、祖父の葬式の喪主をつとめました。父は海上自衛隊の自衛官としてイラクへ後方支援に行っていた関係で戻ってこられず、長男の長男である僕が喪主として葬式を執り行うことになりました。