子どもが生まれたけれど虐待の連鎖が怖かった

Oさんは、中学校卒業とともに、施設を退所し実家で暮らすことになった。だが、母は恋人との暮らしを優先したため、服飾専門学校に通いながら、バイトして自活した。

だが、学費のかかる専門学校とバイトの両立は厳しく、1年で学校を辞めることになる。そこからは、キャバクラを転々としながら、生計を立てた。

彼女の精神は安定せず、うつを発症する。幸せな家庭を夢見ていた彼女は、28歳のときに最初の結婚もしたが、性格の不一致から1年ほどで離婚した。

「家庭に恵まれなかったことで、自分の血を分けた家族が欲しいという気持ちは強かったです。正直、相手は誰でもよかったです。子どもが欲しかった。34歳で再婚した夫との間には2人の子どもに恵まれ、とても嬉しかった。

だけど、虐待は連鎖するということを出産後に知り、自分が子どもを虐待するのではないかという恐怖から、育児ノイローゼになりました」

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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「普通の母」「普通の家庭」が分からなかった彼女は、ネグレクトになるんじゃないかという怖さから、子どもが少しでもグズると、短時間でも放っておくことができなかった。あやすことに集中した結果、掃除や料理などの家事もままならなくなった。

38歳の時に精神科を受診すると、境界性パーソナリティー障害の診断が下った。

「障害があると子を虐待しやすいと知り、本を片っ端から読んで、子に悪影響が出ないようにしようと思いました」

離乳後に、服薬とカウンセリング治療を8年続けたが、特にノイローゼ状態が改善することはなかった。

娘と息子にも障害があることが発覚

Oさんは長女の出産の翌年に長男を出産したが、長男が1歳半検診のときに、発達の遅れを指摘されている。

特に治療や療育を勧められるでもなく、そこから6年間は定期的に療育センターと面談を繰り返した。

「娘が小6のときに、学校でトラブルを起こしました。反抗期だった娘を真似て、小5の息子まで家で暴れ、警察を呼ぶような状態になりました。

自分の障害の影響なのではないかと思い、児童精神科にかかることにしました。医師からは『問題なのは上の娘さんではなく、息子さんです』と言われました」

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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息子は重いASD(自閉症スペクトラム障害)だった。娘には軽度のADHD(注意欠如・多動症)診断が下る。そして、自分自身は、境界性パーソナリティー障害ではなくADHDだと診断される。

「パーソナリティー障害だと言われ、服薬を続けても、何の変化もなかったです。だけど、抗ADHD薬は劇的に効きました。1歳半検診の時にもっと私がしっかりしていたら、息子を適切な医療に繋げられたという思いから、親子で通える今の発達障害の自助会を立ち上げました」

反抗期の娘と一触即発状態だった夫と離婚し、3人での生活をスタートした。