芥川龍之介が苦悶した「文章の口語化」
大学には「文学部」、世には数々の「文学賞」もあるように、詩歌、小説、戯曲はなぜか「文学」と呼ばれる。「文字」と見間違えそうな「文学」。「文芸」なら文の芸ということで理解できるのだが、「文学」は文を学ぶのだろうか。
文学作品とは「言語を問い直し、変容させ、言語にたいする無意識や言語が普通に用いられる場合の機械的操作から言語を引き離す」(ジュリア・クリステヴァ著『記号の解体学──セメイオチケ1』原田邦夫訳 せりか書房 1983年)そうだが、そのスタンスはやはり校正に近いのではないだろうか。
明治25年(1892年)生まれの芥川龍之介も何を書くかということより、どう書くかで悩んでいたらしい。
『文藝的な、餘りに文藝的な』(芥川龍之介著 岩波書店 昭和6年 以下同)によると、彼は「詩的精神を流しこん」だ「リアリズム」を貫き、「我々人間の苦しみは救ひ難い」と訴える「ジヤアナリズム」(ジャーナリズム)を書こうとしていたそうなのだが、書くにあたって「文章の口語化」という問題に向き合っていた。
それまでの漢文調から「しやべるように書け」という風潮の中で苦悶したのである。
日本人のしゃべり方は非音楽的で書き言葉に向かないとのこと。さらに彼は「『書くやうにしやべりたい』とも思ふものである」と告白している。しゃべるように書きたいが、書くようにしゃべりたい。文章の口語化は口語の文語化を伴うようで、そのあたりのリアルな救い難さこそが「文学」だったようなのである。