首里地区攻撃への米軍判断
米第10軍は、1944年10月10日の沖縄大空襲で、大掛かりな航空写真撮影に成功した。空撮をもとに、1944年11月には「攻撃目標地図(ターゲット・エリア)」を作成し、攻撃目標地点を示した「地理座標地図(グリッド・マップ)」を完成している。
その結果、首里地区は、「攻撃目標地点首里第17」に入り、詳細な市街地地図も作成された。米軍が示した主要な建物は、以下の通りである(註数字番号は、地図上のポイントを表す)。説明文から、首里城は、08地点に含まれ、神社施設と一体化して記述されている。
米軍が割り振った目標図と番号をもとに、戦前の首里地区地図とを照合すると以下のようになる。
首里城周囲には、多数の無線塔と関連建屋が配置され、軍事的利用の推測もできたはずだ。この中で比較的分かりやすいポイントは、師範学校や国民学校の学校敷地である。また、沖縄放送局の送信塔は、首里寒川町と崎山町に建立されており、米軍の観測通り間違いない。分かりづらいポイントもあるが、米軍の分析に大きな過ちは見られない。
さて米軍の上空監視活動は、1945年に入ると一段と強化され、2月28日、この日もB-29が沖縄に飛来し、首里城の真上から鮮明な写真を写した。日本兵の日記に、この日のことが書いてある。
「好天が続き、B-29が飛んで来る。空襲警報は発令ならず。みんなこれを『定期便』と呼んでいる。今日は、2機が飛来した(*9)」
日本軍は、「定期便」が来たなどとおもしろおかしく騒ぎ立てたが、この間米軍は、攻撃目標を定めるため鵜の目鷹の目で空撮を行なっていたのである。
日記の持ち主は、2月はじめに休養日を利用して必勝祈願をかね部隊全員で首里に向かうが、立ち入り制限が行われ、首里地区に入ることができず残念がっている。このとき首里は、軍機保護法上最大の規制と監視体制が敷かれ、元々の住民や陣地構築に動員された民間人を除き、自由に街中に入ることは許されなかった。
しかし首里上空は、全くの無警戒で、敵の目にさらされ続いたわけである。
さて、1944年10月段階で首里には、ごく一部の陣地しかなかったが、1945年3月には第32軍地下司令部壕の他、6つの日本軍壕が第32軍司令部壕を取り囲む形で配置された。また首里城から南に約1.3キロ離れた繁多川地区にも2つの海上部隊司令部が置かれ、海上作戦の全般的な命令を下していた。
さらに周囲の高台には、電波塔、送信塔が敷設され、大本営や台湾の第10方面軍と交信を行なっていた。このとき首里は、全国でも有数の軍事要塞基地として機能していたのである。
モノクロ写真・図/書籍『首里城と沖縄戦』より
写真/shutterstock
*1 Battleship NC, “Battle of Okinawa”, Action Report. 1945年3月24日。
https://battleshipnc.com/battle-of-okinawa/
*2 NARA RG407 Box2946 Army, 10th Army, G-2, Intelligence Monograph, Ryukyus Campaign(Okinawa, 1945), PartII SectionD, p.6.
*3 詳しくは、保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版、2013年、103―172頁を参照。
*4 Dale E. Floyd, Cave Warfare on Okinawa, Army History, U.S.Army Center of Military History, Spring/Summer 1995, No.34,p.6.
*5 沖縄県立図書館史料編集室編『沖縄県史 資料編1 民事ハンドブック 沖縄戦1 和訳編』沖縄県教育委員会、1995年、134頁。
*6 名護市史編さん委員会編『名護市史 本編3 名護・やんばるの沖縄戦 資料編3』名護市役所、2019年、30頁。
*7 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編『東京大空襲・戦災誌第3巻 軍・政府(日米)公式記録集』東京空襲を記録する会、1973年、932頁。
*8 同上、針生一郎の解説、925頁。
*9 NARA RG407 Box5352 WWII Operation Records XXIV Translations of Captured Documents 高橋上等兵日記、1945年2月28日。