渡鹿野区長が語る“売春島”の歴史

三重県志摩市の的矢湾に浮かぶ、周囲およそ7キロほどの小さな島が「売春島」へと変貌したのは、1970年ごろにさかのぼる。だが、この地で長年にわたり区長をつとめる茶呑潤造氏(ちゃのみ・じゅんぞう/74歳)は「江戸時代から渡鹿野島には売春の下地はできていた」と語る。

「この島は入り組んだ湾内にあって波もおだやかだからね、菱垣廻船とか樽廻船といった商工船が停泊する『風待ち港』として栄えたの。もともと島民は半農半漁の生活をしてたんやけど、嵐がきて船が停泊するとなると、船乗りたちは食料のほかに女の子も必要になるわけや。

それで島民たちは島外の女の子たちを養女にもらって、船乗りたちの(夜の)相手をさせるようになったのが始まりやな」

対岸から望む渡鹿野島
対岸から望む渡鹿野島
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渡鹿野島では、そうした女性たちのことを「菜売りさん」と呼び、湾内に停泊する商工船に小舟を漕いでいき、水や野菜などの食料を売るついでに夜伽(女性が男性の相手をすること)をして金銭を稼いでいた。

やがて島内には宿屋が立ち並び、船乗りたちの相手をする芸者のための置屋も設置されたが、1957年に売春禁止法が施行。そんななか、1960年代後半に四国出身の4人の女性が海をわたってきた。

「彼女たちはそれぞれ島にやってきて、知り合いの女の子を集めて『置屋商売』を始めたの。つまりは売春だわな。その当時は、僕もまだ10代の学生で地元でそんなことが行われているとは思わなかった。

せやけど、夜になるたびに、こんな小さな島だというのに近所のたこ焼き屋からはワイワイ騒ぎ声が聞こえてくるし、旅館の窓をのぞくと大人たちが野球拳してるの。『やーきゅうーすーるならー』とかうるさいから『勉強のジャマや!』と怒鳴ったこともあった」

その後、茶呑さんは一度渡鹿野島を離れるが、1984年ごろに家業を継ぐために帰郷。そのころにはすでにパチンコ屋は閉店し、最盛期も過ぎ去っていたが、それでもメイン通りは夜になると「黒山の人だかりができていた」と振り返る。

往時の盛り上がりは見る影もないメイン通り
往時の盛り上がりは見る影もないメイン通り

 「週末になると、島に遊びにきた男性と(置屋の)ホステスさんの頭しか見えなくなるくらいごった返してたの。実際にそのころは、島の人口も650人はいたからね。ホステスさんのなかには子持ちもいて、息子を保育園に預けようとしても『いま満杯なんですよ~』と断られたほどだよ。

それと、当時の島の運動会にはホステスさんも参加してて、一緒にムカデ競争やかけっこもしたことある。一緒に居酒屋で飲んだり騒いだりもしてたけど、もちろんホステスさんもそこら辺はわかってるから島民を誘ってきたりはしない。あくまで島の一員として馴染んでいた」