バイデンのイスラエルびいきは筋金入り
その言葉どおり、バイデンのイスラエルびいきは筋金入りだ。ペンシルベニア州スクラントンに生まれたバイデンは、イスラエルを断固支持するカトリック教徒の両親のもとで育ち、イスラエルへの尊敬の念を植えつけられた。
バイデンの回顧によれば、父親はよく、「1930年代、ホロコーストを前に世界がいかに黙って傍観していたか」について話していたという。バイデンの子どもはユダヤ人と結婚し、ユダヤ人の孫がいる。
バイデンはすべての子どもと孫について、14歳に達した時、ドイツにあるダッハウ強制収容所を訪問させてきたと語っている。ユダヤ人の強制収容のみならず、人体実験なども行なわれた場所だ。
1973年、若き上院議員だったバイデンは、イスラエルを訪問し、当時の首相ゴルダ・メイルと会談した。これを皮切りに、バイデンは歴代のイスラエル首相と会談し、関係を構築してきた。
バイデンがイスラエルに到着して最初に訪れたのはホロコースを記念するヤド・ヴァシェムであり、ここでも「二度とホロコーストを繰り返してはならないという誓いを新たにした」という。
そのキャリアを通じてバイデンは、イスラエルの軍事行動に常に理解と支持を与えてきた。それがたとえ、市民を巻き込むものであっても、である。
1982年、イスラエルがレバノンに侵攻した数日後、訪米したイスラエルのメナヘム・ベギン首相が上院外交委員会の場に現れた。レバノンでのクラスター爆弾による民間人殺害について複数の議員たちから追及された際、立ち上がり、非常に熱のこもった演説でイスラエルを強力に擁護したのがバイデン だった。
帰国したベギンはその時の模様について次のように語っている。「バイデンは、我々よりさらに踏み込んだ主張を展開し、イスラエルを侵略しようとする者に対しては、たとえ女性や子どもを殺すことになろうとも、力強く撃退すると述べた」。
このバイデンの発言は、右派政党リクードの創設者ベギンに強い印象を残した。結局、当時の大統領ロナルド・レーガンがベギンに電話をかけ、レバノンの首都ベイルートの制圧を断行するならば、「我々の将来の関係全般が危険にさらされる」と強い口調でその中止を求めた。
この時、レーガンは、意図的にホロコーストという言葉を使い、「今やその象徴は、腕を吹き飛ばされた生後7カ月の赤ん坊の絵になりつつある」と強く迫ったという。その20分後、ベギンから電話があり、砲撃の中止を命じたと告げられた。