死の消化と昇華
死とは何かという概念的理解に加えて、我々現代人がしばしば悩むのは、身近な人々の死を如何に受け入れ、乗り越えていくのかという論点である。私はこの困難の克服に関して、韻を踏みつつ「死の消化と昇華」という言葉でしばしば表している。
これは日常から死が隠されてしまっている現代では非常に大きな課題であり、死に纏わる悲しみを抱えたまま生きていく辛さは、なかなか周囲に吐露しにくいという心痛はよく聞く。
日本の防災教育は、「死んだらいけない」という面からは熱心に教えているが、「死に遭遇した場合に、どうすればよいのか?」という観点からはほとんど何も言及されていない。これは大きな問題で、「死を良くないもの」と潜在的に感じさせてしまう可能性があり、日常的な話題にしにくくなる。
その中で社会は復興に向けて動き始めるので、遺族の気持ちは置き去りにされがちになる。こうした事態に備えるべく自分自身、そして周囲が悲嘆に暮れた際に、回復の糸口をどこに見出せばよいのかという意味から、坂口幸弘「死別後の悲嘆とグリーフケア」は、一読の価値があろう。
また山田慎也「日本における葬儀の歴史」においては、近年の葬儀の簡略化が、死者と向き合う時間を少なくしてしまい、それゆえに遺族が悲しみから抜け出せなくなるという状況に警鐘を鳴らしている。
さらに死の受容に関しては、遺品が大きな意義を有していることに気づかせてくれる横尾将臣「遺品整理の現場から見る孤独死」も心に刺さる。普段疎遠であった親族が、遺品を通じて過去を思い出し、故人を偲ぶ様子は、インフォーマルな悲しみの共有のあり方として考えさせられた。