江戸後期から幕末にかけてバリエーションが豊かに

描かれる幽霊が圧倒的に女性ばかりなのは応挙の影響でしょう。特に幸薄そうな女性が多いのは、日本人の好みでしょうね。

とはいえ、次第に幽霊画も人々のニーズに従ってどんどんバリエーションが増え、表現が細かくなっていきます。

同じような絵ばかりでは飽きられるので、絵師も工夫をするようになり、掛け軸の本紙の周りの裂地(きれじ)部分にも描くことで軸から飛び出してくるような印象を与える「描表装(かきびょうそう)」などの表現も使われるようになりました。

さらには歌舞伎の幽霊場面が描かれたり、生前の職業を察することができるようなものも登場したり、一見幽霊に見えないようなものも。だまし絵のような幽霊画も描かれるようになっていきます。

なぜ日本人は幽霊が大好きなのか。“日本最初”の幽霊は誰? 初めて幽霊画に登場した歴史上の人物とは? _4

また、当初は「百物語」の際に飾られていたと思われる幽霊画も、政情不安が世の中にまん延する幕末になると、単独の鑑賞用としても描かれるようになります。

この頃には見世物小屋がもてはやされ、人形師の松本喜三郎による“生人形(いきにんぎょう)”と呼ばれる精巧な人形が人気を呼ぶなど、怪奇趣味の流行もありました。

カタルシスを得ることでストレス解消となるような画風が好まれ、怖いもの見たさを満足させる作品が絵師に注文されるようになります。

聖書のサロメも真っ青の、生首を持っている幽霊などもいくつも描かれました。渓斎英泉(けいさいえいせん)の「幽霊図」もその一つです。

この人は幕末期に退廃した女を描いた画家で、根津で女郎屋をやったり、媚薬を作って売ったりもしていたらしいいわく付きの人ですが、おしろいの匂いが漂ってくるような妖艶な美人画を得意としました。

葛飾北斎の「生首の図」や月岡芳年(よしとし)によるスプラッタ系の作品もその流れにあります。

三遊亭圓朝は怪談噺の参考とするために幽霊画を集めたといわれていますが、この頃には幽霊画そのものの鑑賞会のようなものもできていたのではないかと思われます。

私が面白いと思うのは、中国には日本よりもずっと前から仙人たちの世界を描くなどした絵がたくさんあるし、上田秋成『雨月物語』などに収められた怪異小説のルーツも中国にあるのに、日本のようにそれが大衆にまで広まり、楽しまれてはいなかったということ。中国の幽霊は高等遊民だけのものだったのです。

ただ、日本でも応挙の幽霊図のように単独で描かれる幽霊図が広まらなかった分野があります。浮世絵版画です。

浮世絵版画といえば美人画や役者絵。人気絵師の葛飾北斎や歌川広重が風景画を描いたのは幕末になってからです。

北斎は幽霊単体を描いたものとして、「百物語」をテーマにしたシリーズにも着手しますが、これは全く売れなかったのでしょう。5図までしか作られませんでした。

北斎としては売れると見込んで挑んだわけで、そのせいか気合いを入れて、一般の人には理解しがたい工夫を凝らし過ぎてしまったんでしょうね。

その後、浮世絵版画では歌舞伎の幽霊登場場面が描かれます。歌舞伎の幽霊場面は盛んに描かれますが、これは役者絵を含む芝居絵の一部です。これとは別に、幽霊を単独で描いた錦絵は北斎の「百物語」くらいでしょうか。つまり単独の幽霊図は、浮世絵版画の世界では流行しなかったのです。