音楽ライターの道を決意させたふたつのコンサート
重松 今回の『80年代音楽ノート』の前に、田家さんは『70年代ノート』を書かれています。『70年代〜』の方は田家さんの「私」がたくさん出ていますよね。雑誌の編集者時代の話、ラジオの構成作家時代の話、そして政治や学生運動の話もあって、本当に「70年代」としか言いようがない1冊です。
これが『80年代〜』になると、音楽の仕事がだんだんメインになってくる。田家さんは、いつぐらいから意識的に、あるいは無意識で、音楽というフィールドを自分の主戦場にしていかれたんですか?
田家 70年代は、音楽を意識するというより、自分が気心を許せたり、信頼できたり、友達になりたいなって思うような人が音楽の周辺にしかいなかったんですよ。居心地のいいところというか、自分が生きていける場所が、そこしかなかった。なんて言うんでしょうね…難民、みたいな。
重松 難民!
田家 僕らは音楽に“逃げ込んだ”難民みたいな感じがありました。学生運動の名残りもありましたし。就職したくないな、ネクタイもやだな、みたいな気分が強くて。
じゃあ社会で何やるんだ、ってときに、ラジオの深夜放送があった。フォークロックの人たちが、みんな髪の毛が長くて、歌ってることも僕らがいつも思っているようなことで。この人たちの側にいれば、俺も生きていけるかな、と。
はっきり、音楽の世界で生きていこう、と思ったのは2回あります。
ひとつは、1975年の『吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋』。夜明けに、拓郎さんが「人間なんて」を歌うのを見て、ああ、音楽の力ってすごいんだ、と。6万人がこんなに涙流して汗流して。みんなで歌ってるんだって。僕、膝が震えて、どうしていいかわかんなかった。
重松 2回目は?
田家 2回目はね、尾崎豊です。
70年代の終わりにね、深夜放送が変わり始めるんです。深夜放送がメジャーへの足掛けみたいになって、1つのステータスになってきて、アイドルの人なんかが番組を持つようになるんですね。その構成をやってくれって言われて。自分にはラジオの世界がちょっと居心地悪くなってきた。
そんなときに「雑誌の編集長やらないか」って言われて、そっちに行ったんです。で、4年間で3冊やったんですが、全部休刊、なくなっちゃって。ちょうど80年代に入った頃です。
音楽はたのきんトリオが出てきてアイドル全盛時代。雑誌編集の方もうまくいかない。さあどうしよう、ってときに、尾崎豊が出てきたんです。
重松 『80年代音楽ノート』でも書いていらっしゃいますね。
田家 1985年のツアーの最終日の、大阪球場公演です。彼が、「ハイスクール Rock’n ‘Roll」のイントロに乗せて、教室でウォークマンを聴いていて、クラスのみんなに白い目で見られたてたと、高校時代のことを話していて。
「ブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウンや佐野元春や浜田省吾なんかを聴いてたんだぜ。よく聴け、これがロックンロールだ!」って叫んだんですよね、そのとき、「やっと見つかった」って思ったんですよ。
ブルース・スプリングスティーンや浜田省吾や佐野元春という、僕自身が好きな音楽を、尾崎豊を通して聞く人たちいるんだ、と。自分の好きな音楽で、世代を超えて繋がることができる、伝えることができる。そこに、自分の居場所があるかもしれないと思ったんですね。そこから、音楽ライターでやっていこう、と。
文/剣持亜弥 写真/三浦麻旅子