「美空ひばりはファンにとっても、歌手にとっても”燈台”なんだ」

1987年3月の初め。作詞家の星野哲郎は、常磐線の特急ひたち3号に乗って、福島県いわき市にある塩屋岬へ向かった。

長期入院を余儀なくされていた美空ひばりが退院して、病からの復帰第一作となる新作をコロムビア・レコードから頼まれたからだ。

前年に病に倒れて危機にあった美空ひばりの復帰作にあたって、作詞を星野に、作曲を船村徹に依頼したのは、コロムビアで長くディレクターを担当していた森啓である。

星野が森から言われたのは、福島県の塩屋岬あたりを見に行ってほしいとのことだった。どういう詞が求められているのか、いろいろ感じてもらえるはずだと。

森がその時に心の奥で思っていたのは、「美空ひばりはファンにとっても、そして歌手にとっても目標、つまり”燈台”なんだ」ということだった。だからそんな思いを、そのまま歌にしてほしかった。

福島県の塩屋埼灯台
福島県の塩屋埼灯台
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朝一番の汽車に乗ってやってきた塩屋岬の周囲には、太平洋に臨む“燈台”が一つあるだけで、人影のない海岸線は荒涼としていた。

星野は、ぱっとしない景色の中で、どうすれば人間ドラマを描けるのかを考えながら、あてどなく浜辺を歩き続けた。そして夕暮れ時。振り返ると、夕陽の中に白い燈台が立っていた。今まで遠くにあった燈台が、大きく見えた。

誰もいない大海原に向かって命の光を放つ燈台が、次々に家族を失っていく哀しみの中で、孤独感に包まれていた美空ひばりに重なって見えた……。