川崎フロンターレ時代の恩師である風間八宏さん(左)と、中村憲剛さん
川崎フロンターレ時代の恩師である風間八宏さん(左)と、中村憲剛さん
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憲剛が凄かったのは、周りに追いつかせなかったこと

中村 風間さんが監督として筑波大から川崎フロンターレにやってきたのは2012年シーズン。50歳で初めてJリーグの監督をやられたわけですね。

風間 そう。当時は(母校・筑波大での)准教授と蹴球部の監督に加えて、解説やほかの仕事もあったから、川崎に行くにあたって各方面の方々に尽力していただいたんだよね。

中村 それも(成績不振による)監督交代でシーズン途中の4月から。

風間 ちょっと無謀だよね(笑)。

中村 結局、オファーを受け入れています。
 

風間 当時の武田信平社長と庄子春男強化本部長から、単純に「監督をやってくれ」ではなくて、「クラブをトップから育成まですべて攻撃的なチームにしたい。その礎を築いてほしい」と言われて。だったら面白いな、と。

中村 僕自身、(風間さんの就任時は)日本代表の活動に参加していて。そこからチームに戻って、技術、基礎のところはある程度自信を持ってやってきたなかで風間さんに最初会ったら、トラップで「ボールが止まってない」と言われたんですよね。僕的には止まっているのに、風間さんの認識は違っていました。

風間 憲剛はできると思ったから1回言っただけ。要は〝ボールを止める自分の場所がないよ〟と。案の定、憲剛はその場所をすぐに見つけたけどね。

中村 噛み砕いて言えば、自分の場所でボールをきちんと止められたら、(守備にくる)相手も止められる、ということ。それを無意識じゃなく意識的にやり続けていくと、相手は飛び込んでこれなくなるので、味方を活かしながら自分たちの攻めができるというところにつながっていく。ボールをちゃんと扱うことが普遍の真理であり、30歳を過ぎてそれを思い知らされたことは自分のなかでメチャメチャ大きかったですね。
 

風間 ボールを取られないというより相手が来なくなる。相手が来ない、すなわち前方向にプレーできると憲剛自体が戦術になる。憲剛という基準の「時計」をつくれば、みんなが憲剛に合わせていけばいい。(フォワードの)小林悠みたいに動ける選手が周囲にはいたわけだから。お互いに要求をするようになっていくと、(全体の判断スピードが)どんどん速くなっていった。しかし、憲剛が凄かったのは、(周りのチームメイトに)追いつかせなかったことだね。

中村 恐縮です(笑)。追いつかれなかったというのは、一番上の位置でこのサッカーを楽しみたかったからだと思います。自分が先に行くことで、周りがついてきてくれる感覚もありましたから。するともっと楽しくなる。みんな同じ目線で共有できますから。
 

風間 あるとき日本代表から帰ってきた憲剛が、「日本代表の選手たちは力があります。僕たちはこのままでいいんですかね?」と言ってきたことがあった。フロンターレでやっていることが「面白い」と感じたその次は、代表選手との質の違いを感じて〝まだまだダメだ〟と。いいなと思ったよ。だから、「そのとおりだよ」って返したのを覚えてる。

中村 自分が一番伸びたのが、風間さんとフロンターレでやった32~34歳くらいのころでしたから。自分のこれまでの常識みたいなものが全部ひっくり返されていく感覚があったので、とにかく新鮮でした。指摘されることも〝なんだよ〟っていう反発はなくて、感情としては「面白い」しかない。あとはボールを大事にする。そして、攻める攻める攻めるだから、僕には性が合っていました。このサッカーを手放したくないと思っていたし、シンプルに言って何より自分が楽しかったですね。

「ボールは友達」リアル翼くんだったからこそ本気で説く「監督は何より選手に楽しんでもらわないといけない」【中村憲剛×風間八宏対談 前編】_2

監督はやっていただく側だからこそ、選手に楽しんでもらう必要がある

風間 監督ってピッチでプレーできない。選手のみなさんに、やっていただく側だから。だからそれはもう選手が楽しんでもらわないとね。

中村 僕自身、選手が楽しめているかどうかが指導者としてのベースになっています。要は見えない世界を教えてあげること。だから「ボールが止まってない」と指摘されたことと一緒で、その選手の認識を変えてあげることを考えています。あんまりガーガーと言うんじゃなくて、ポイントで端的に伝えて引き出してあげるイメージですかね。だから強制とかじゃまったくない。

風間 選手が楽しけりゃ、指導者も楽しいって思えるものだから。そこに自分の欲なんていらない。選手に手柄を立てさせてやろうみたいな欲で教えてもダメだと思う。そうなったらこっちも面白くない。

中村 風間さんの「楽しむ」ベースはやっぱり少年時代にあるんですか?

風間 そうだね。サッカーを始めたのが小5のころ。苦しいことがあっても神社でボールを一人で蹴るだけでそういうことを忘れらたんです。俺の言うとおりに常に傍にいてくれるんだけど、同時に思ったようには動いてくれないっていう一番面白い友達だったよね。
 

中村 ボールは友達。まさにリアル翼くんじゃないですか!

風間 中学生になってから背が伸びずに、足のスピードで負けてしまっていて。でも歩くときのスピードはみな同じでしょ。ならばボールを(自分の体の)前で扱うんじゃなくて後ろにボールを置きながら前に進むってことを覚えたわけ。そうすると取られないし、いつもサッカーは遊びということが抜け落ちることはなかったね。

中村 みんなボールを蹴るのが楽しかったり、うまくいかなくて悔しかったり、そこが根っこにあるんだと感じます。競争や勝ち負けが入ってくると、大切にしていたところを忘れてしまいがち。「楽しめ!」という指導者も多いとは思うんですけど、どれだけ本気で言えているかどうかは受け手にも伝わりますよね。

風間 俺も選手時代、ドイツでプレーしていたころまでは遊べていたんだよ。マークが2人いても引きつけて抜いたらスタジアムを沸かせられると思って、「ケガさせられるからやめておけ」って周りに言われてもやっていたくらい。でも、1993年にJリーグが開幕して、このチームを勝たさなきゃいけないっていう思いでサンフレッチェ広島に行ったから、いつの間にか勝つことだけにがんじがらめになった。プレーもそこで全部変わって、それがプロだって思い込ませていた時期もあった。家族にも「全然楽しそうじゃない」って言われてたんだよね。
 

中村 風間さんがいたサンフレッチェは1994年にはファーストステージで優勝しました。

風間 そう。そこでやれることはやったから、もう1回海外でやりたいと思ってドイツ3部のチームと契約して。そこでプレーしていたら、子供たちから「こんなに楽しそうにサッカーしているお父さん、初めて見た」って言われて。本当にそれは衝撃だったね。勝ち負けじゃないところのほうが、絶対に強えよなってあらためて思うことができた。

中村 僕も楽しめないときはありました。でもその時期があったから本当の意味で楽しいっていうことが何なのかが分かったような気がしますね。

風間 俺自身もそうだったからね。