名ばかりの共学
女性を教える立場にあった東大の男性教員は女性学生をどう思っていたのだろうか。
戦後の占領下において、表立って共学化に反対する声は学内からあがらなかったようである。むしろ、すでに見たように、戦後初の総長だった南原繁は女性が東大に入ることには好意的であった。入学式での言葉に加え、女性の1期生にはその後、「何か困っていることがあれば、いってきなさい」と気にかけていた*15。
また、法学部教授でアメリカ政治を専門とし、アメリカからの教育使節団に応対した高木八尺は、男女が本質的に平等であるとする「リベラルな高等教育」に賛成していた。アメリカの団員に対して、自分の娘を育てた体験をもとに、「日本の将来は性別による差別ではなく、知識(インテリゼント)によってその身分が決められるべきである」と主張していた*16。
男性と同様に優秀なのであれば、女性が入学することは構わないというのが東大の基本姿勢であり、共学化をめぐっては教員間でとくに激しい議論はなかったようである。むろん、それは占領軍の方針だったから、表立っての反対も難しかった。
戦後すぐの1946年に東大に入学した藤田晴子は、在学中に法学部教授の田中二郎に高く評価され、助手として採用された(とはいえ、そのまま教員として採用されることにはならなかった)。
同じくその年に入学した舟橋徹子は経済学部教授の大内兵衛に気に入られ、「私設秘書」としても働いた。もちろん、男性の学生は「私設秘書」などにはならなかったから、舟橋に対する大内の評価は彼女のジェンダーと不可分なものであった。それでも、舟橋を信頼できる、極めて優秀な学生とも見ていたようだ*17。
このように個々の教員が女性学生を評価する例はあったものの、戦後すぐに女性学生の存在が、東大教員の強い関心を引くことは総じてなかったようである。共学になったとはいえ、東大は圧倒的に男の大学であった。
1946年の工学部入学の女性がゼロだったことからも明らかなように、とくに理工系学部では、女性の存在感はほとんどなかった。東大全体で女性の入学者が100名を超えたのは戦後20年近くを経た1964年である。共学とは名ばかりで、教授も全員男性だから、どこを見ても男しかいないようなキャンパスだった。女性の存在は、さして話題にもならなかった。