群馬県館林市にある日本最大のロヒンギャコミニュティ
舘林は日本最大のロヒンギャコミニュティとして、約300人を超える人々が住んでいるが、この丸山発言には皆、絶望と憤怒を隠さなかった。「日本はお金に目がくらんで、私たちが絶滅するのを待っているのか」とアウンティンは怒りを露わにしていた。
彼が失望したような日本外交が展開される中、ミャンマーの隣国・バングラディッシュの日本大使が、逃れて来たロヒンギャ難民たちに対する積極的支援を行っているという情報が入って来た。それが泉だった。
泉は2017年に、バングラディッシュの首都であるダッカに赴任すると同時に、国連が主催する難民キャンプ視察ツアーに参加した。ロヒンギャ難民であふれるクゥトゥパロンキャンプの惨状は想像をはるかに超えるものだった。
それ以降、泉は2か月に一度はキャンプを訪れ、難民を支援する国際機関やNGOの職員を支援し続けた。
政府系のNGOである「難民を助ける会」でさえヤンゴンの現地オフィスを心配してか、「ミャンマー避難民」としか呼ばなかった時期があるが、泉は外務省ではタブーとされる「ロヒンギャ」というワードを公然と使った。
「迫害を受けた難民のアインデンティティーに関するものとして、最も重要な言葉ですよ。もしも(外務省から)けしからんと言われたら、強調して、カッコ付きで『私はロヒンギャと言っています』と言い返しますよ」
文字表記ではなく、会話だから「」は見えないだけ。サッカーでの民族融和を図ったオシムが、提出した書類をセルビア人の政治家から(セルビア人の使う)キリル文字の書類ではないと言いがかりをつけられたときに「じゃあ、会議はキリル文字で話し合おう」と宣言して爆笑を誘ったことを想起する。このように圧力をユーモアで返しながら泉は勢力的に活動を続けた。
泉は2019年4月、故郷の広島にロヒンギャ難民が折った千羽鶴を持ち帰って寄贈している。
「ロヒンギャは自分たちの学びで、原爆の子の像になった佐々木貞子さんのことを知ってくれています。そして鶴を折ってくれた。無国籍にされて国を追われたロヒンギャこそ平和が欲しいはずじゃないですか。だから僕はうれしかったんです。では日本はどうか。同じアジアで起こっているこの悲劇にもっと関心を払ってもいいじゃないですか」
泉の存在を知ったアウンティンはこのとき、ともに広島に足を運んで被ばく者に祈りを捧げている。同年6月に泉は、人権課課長時代のネットワークを活かし、日本ユニセフ協会大使の長谷部誠(ブンデスリーガ・フランクフルト)に手紙を書き、ロヒンギャ難民キャンプで子どもたちとボールを蹴ってくれないかと打診。
快諾した長谷部と一緒にクトゥパロンに足を運び、日本代表キャプテンがサッカーをする機会をセットした。常々、泉は「ロヒンギャの子どもたちに教育の空白期間を持たせてはいけない」と言い続けてきた。約80万人の難民のうちの半数以上が未成年である。いつかミャンマーに帰国するまでに学習する機会を与えなければ、社会復帰も厳しい。
バングラディッシュでの二年の任期を終え、次の赴任地、台湾の台北事務所長に着任してからも泉の心はロヒンギャとともにあった。