世界最高峰のレースと呼ばれるフランス・凱旋門(がいせんもん)賞。
日本競馬界の悲願に挑むホースマンたちの熱き想いを描いた、馳星周さんの新たな競馬小説『フェスタ』が刊行されます。
数々の名馬を輩出し、海外遠征でも多くの偉業を達成して、「世界のYAHAGI」と称される調教師・矢作芳人さんは、この物語をどう読んだのか。
競馬の魅力に改めて迫るスペシャル対談です。
構成/タカザワケンジ 撮影/露木聡子
凱旋門賞という特別なレース
――「小説すばる」で連載されていた競馬小説『フェスタ』刊行記念ということで、今日はJRA調教師の矢作芳人先生をお迎えしてお話を伺いたいと思います。まず、矢作先生は『フェスタ』をお読みになってどんな感想を抱かれましたか。
矢作 馳星周、やっちまったなと思いましたね(笑)。「えっ、ここまで競馬のことを詳しく書いて大丈夫か?」と。僕は調教師、つまり競馬のプロですから面白く読みましたけど、競馬に詳しくない人に受け入れられるのかなって心配になりました。普通は専門的な内容なんかをもっと端折(はしょ)っちゃうんじゃないかと思うけど、すごく濃密というか、競馬小説として一切の妥協がないですね。生産者、馬主、調教師、厩務員(きゅうむいん)やジョッキー、それぞれの視点から競馬の世界が細やかに描かれていて、とても面白かった。
馳 二〇二一年に矢作先生と初めて対談させてもらったんですが、そこで凱旋門賞の話が出て、先生が「凱旋門賞は逃げ馬でいきたい」っておっしゃったんですよね。ちょうどその時、『フェスタ』の構想を頭の中で練っていて、「凱旋門賞で勝てるのは逃げ馬だ」と思っていたので、先生の言葉を聞いて「やった!」と思ったんです。「俺は間違っていないぞ」と。
矢作 僕は『フェスタ』を読んで、「俺が言ったから逃げ馬にしたんだな」って思ったんですよ(笑)。でも、その発想は最初からあったんだね。
馳 ええ。凱旋門賞に普通の馬を連れて行ってもだめじゃないですか。日本国内で強いダービー馬でも勝てないんだから。これまで凱旋門賞で2着になった日本の馬は三頭。オルフェーヴルは国内外問わず結果を出した怪物だから参考にならない。残りの二頭、エルコンドルパサーとナカヤマフェスタは、後方から追い上げる追い込み馬で2着までいった。その時は、主人公の馬を凱旋門賞で勝たせるかどうかは自分の中では決まってなかったんですけど、ふと「逃げ馬、面白いんじゃないの?」と思ったんですよ。
矢作 僕が逃げ馬って言ったのは、今まで日本の馬が凱旋門賞で勝てていない以上、何かを変えなきゃいけないと思っていたから。そこで浮かんできたアイディアの一つが逃げ馬だったんです。
その凱旋門賞だけど、日本では海外のレースの中でも圧倒的に知名度が高いですよね。この前、高校の同窓会があって、今年はケンタッキーダービーと凱旋門賞に行きたいっていう話をしたんです。そしたら、みんな凱旋門賞にばかり興味を持って、ケンタッキーダービーには全然食いつかないんですよ。
馳 競馬ファンならケンタッキーダービーがすごいってこともよく知ってるんですけどね。
矢作 日本人の中では、凱旋門賞だけがどこか特別な存在になっているというか。
馳 勝てそうで勝てないっていうのが大きいんじゃないですかね。今まで2着が四回あって、しかも結構惜しい2着ですから。
矢作 そういう意味では『フェスタ』の主人公・カムナビの父親、ナカヤマフェスタの2着は本当に惜しかったよね。
馳 そうですね。
矢作 そして二〇一二年の凱旋門賞では、オルフェーヴルがほとんど勝ったというところまでいったのに負けた。そこで過去にやはり2着になったエルコンドルパサーのことが思い出された。しかもエルコンドルパサーが負けた相手がモンジューという欧州最強馬だったということで、日本人の間で少しずつ凱旋門賞というレースが印象づけられていったのかな。
馳 ケンタッキーダービーは日本馬にとっては、まだハードルが高いレースかなっていうのもありますよね。
矢作 いや、今年獲るつもりですけどね。
馳 おお……!!
矢作 たとえば、日本のサッカーが最近強くなったじゃないですか。でも、じゃあワールドカップで日本が優勝できるのはいつかっていったら、それは当然、日本の馬が凱旋門賞やケンタッキーダービーで勝つほうが早いと思います。
馳 それはそうですね。
矢作 時間の問題なのは間違いない。誰が、どの血統が、それを切り開くのかという競争ですね。
馳 もし去年の凱旋門賞にイクイノックスが出てたら、きっと勝ってましたよね。
矢作 勝ったエースインパクトがそういうタイプの馬ですから、おそらくそうだと思います。
馳 去年のパリ・ロンシャン競馬場は奇跡的に雨の降らない馬場だったので、あの条件だったら、GⅠを六連勝したイクイノックスがスピードで圧倒できたはず。でも、天気がいいなんて予見できないじゃないですか。
矢作 そこが競馬の難しいところ。僕はパンサラッサを連れて行きたかったんですよ。未勝利戦を勝った時が不良馬場で大差勝ちしてるんです。パンサラッサはいつものロンシャンの馬場だったら勝てるんじゃないかと。凱旋門賞はちょっと距離が長いかもしれないけど。
馳 2400メートル。微妙ですね。
矢作 でも、パンサラッサで逃がしてみたかったですね。僕が管理していたリスグラシューというGⅠを三つ勝って二〇一九年の年度代表馬にもなった馬がいたんですが、それまで「この馬で凱旋門賞に挑戦したかった」っていうのは、その一頭だけだったんです。同じように思えたのは、パンサラッサで二頭目ですね。昨年引退してしまったので、もう叶いませんが。
馳 リスグラシューは凱旋門賞でもいい勝負をしたような気がしますね。強かったもんな、5歳の時。
矢作 悪路を走るのもうまかったから、凱旋門賞といろんな条件が合ってたと思うんですよね。でも、思った通りにいかないのが競馬です。
馳 先生が連れて行きたいと思っても、馬主が首を縦に振らなかったら無理ですからね。そこは本当に難しい。
馬を愛さない理由
――『フェスタ』はカムナビという一頭の競走馬が成長していく物語でもありますが、矢作先生はカムナビのことをどう思われましたか。
矢作 面白かったねえ。いますよ、ああいう馬。いるんですけど、なかなかあれだけ走ってはくれないですね。でも、パンサラッサも似たような部分があったかなと思います。ある意味、狂気を感じさせる馬でしたから。
馳 パンサラッサはドバイターフとサウジカップで勝った。国内と海外では要求される能力が違うから、海外のほうが合っている馬がいるんですよね。
矢作 あとは環境ですね。日本のトレーニングセンターは美浦(みほ)と栗東(りっとう)の二か所だけで、馬がたくさんいて、ざわざわしていて疲れてしまう。だけど、海外に行くと環境がまったく変わるから、カムナビみたいな気性の荒い馬でも、おとなしくなったりするわけですよ。実際、ナカヤマフェスタも一度目にフランスへ行った時は、現地で素直に調教を受けていたといいますからね。
――カムナビを調教する児玉(こだま)調教師の姿は、矢作先生からご覧になっていかがでしたか。
矢作 うーん。難しいな。児玉の性格ってあんまり描かれていないですよね。
馳 そうです。わざと抑えて書いています。馬に対する感情は生産者と厩務員に語らせたかったので。調教師とかジョッキーにまで語らせたら、ちょっとうるさいかなと思ったんですよ。
矢作 それでよかったと思いますね。僕は、極力自分の管理馬を愛さないようにしているんです。馬に対して感情移入しすぎちゃうと冷静な判断ができなくなる。周りからは馬に対して冷めているように見えると思うし、自分自身でも冷めた存在であろうとしています。
馳 馬に愛情をかけるのは現場スタッフの仕事。調教師の仕事は、馬の能力を見極めて、どのレースで使ってどう勝たせるかですもんね。馬を預けてもらわなきゃいけないから、馬主に営業したりする仕事もある。厩舎の運営は分業が当たり前だし、束ね役として調教師がいるんだから、そこは割り切るべきだと思いますね。
矢作 あと、「馬と言葉が通じたらいいのにね」ってよく言われるんですけど、僕は嫌ですね。調教師は絶対に文句しか言われないから(笑)。
馳 「何でこんなことさせんだよ!」「走りたくねえ!」ってね(笑)。