時代背景と前提を考慮

篠原の興味はアジアの中国にも向かう。

西洋思想を一通り読んでみたが、「体形に合わない洋服を着せられたような心地悪さがあった」と振り返る。『老子』を手にとったとき、不思議な落ち着きを感じたという。

〈『老子』の面白いところは、「空虚のデザイン」という、非常にユニークな提案をしているところだろう。たとえば水に丸くなれ、四角くなれと命令してもそうはならず、殴っても蹴っても飛び散るだけに終わるだろう。しかし丸い器、四角い器という「空虚」を用意すると、水は自発的に空虚を埋めようとし、丸くなり、四角くなる。〉

この空虚のデザインという発想は篠原の専門である微生物研究にも共通する部分があった。彼は指導している学生にこんな問いを投げかけることがある。

――ここに邪魔な木の切り株がある。これを微生物の力で取り除いて欲しい。

ほとんどの学生は「木の成分を分解する微生物を見つけて、それを切り株にぶっかける」という答えを出す。しかし、この通りに実行すると土着の微生物に駆逐されてしまうという。

一つの答えは、切り株の周りに炭素以外の成分を含む肥料を撒くことだ。

「土着微生物は炭素さえあればパラダイスなのに、という一種の炭素欠乏症に陥ります。切り株は炭素の塊です。すると切り株から炭素を取り出すことが得意な土着微生物が動き出す。ほかの微生物は炭素の分け前をもらおうと、支援に回る。土着微生物の生態系全体が切り株を分解する方向に動き出すんです」

炭素が足りないという「空虚」を作り出すことで、意思のない微生物を自分たちの思うように動かしたのだ。

社会とはアップデートされるもの。 哲学者や思想家はそれを目指してきた人研究者・篠原 信氏に訊く『世界をアップデートする方法 哲学・思想の学び方』刊行記念インタビュー_3
老子の「空虚のデザイン」(イラスト/中村隆・カバーイラストより)
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このように過去の賢人たちの言葉には現代社会をより良く変えて行くヒントが隠されている。ただし、気をつけなければならないのは、哲学、思想はその人間が生きた時代という背景、前提を斟酌しなければ、誤った理解になってしまうことだ。

例えば、経済学の父であるアダム・スミスは経済は市場に任せた方がうまくいくという『神の手』(見えざる手)を唱えたことで知られる。しかし、この頃の国家はかなり強硬に経済に介入していた。

後の政府とはその度合いが違う。それにもかかわらず、自由主義、新自由主義者のように「神の手」を強調することは拡大解釈であり、アダム・スミスの意図とかけ離れていると篠原は疑問を呈する。

また、自分は得意とする分野に特化して、不得手な分野は他人に任せることで「ウィンウィン」の関係となるというリカードの「比較優位説」がある。これも「強い立場の人間が弱い立場の人間を困らせる」ことがないという前提条件が欠けてしまえば、貧富の差の拡大が促進される。比較優位説は悪用されやすいのだ。 


文・構成/田崎健太(ノンフィクション作家)

(『kotoba』2024年春号より抜粋)

世界をアップデートする方法 哲学・思想の学び方
篠原信
社会とはアップデートされるもの。 哲学者や思想家はそれを目指してきた人研究者・篠原 信氏に訊く『世界をアップデートする方法 哲学・思想の学び方』刊行記念インタビュー_4
2024年2月26日
1760円(税込) 
四六判192ページ
ISBN:978-4-7976-7442-2

世界を眺める解像度が一気に上がる。
哲学や思想を学ぶことは本来、とても面白い。それは、世界がどのように変遷してきたかがわかるから。本書の切り口は、哲学者や思想家たちの「常識破り」の作法。彼らは、当時の時代を支配する固定観念を壊し、新しい時代のあり方を提案してきた。そして実際に世界を変えてきた。
私たちが歴史から学ぶべきは、今の固定観念は何なのか、それを打ち破るにはどうしたらよいか、その作法を学ぶことだ。たとえば、現代のエネルギーやお金、労働などの常識は本当なのか? 現代の常識をイノベートするための一冊。

【目次より】
1 西洋哲学・思想 過去の常識を破り、新常識を創った人たち
・古代哲学・思想
 ソクラテス 「知」を凡人のものに変えた
 プラトン 国家を人の手でデザインする?
 ほかにアリストテレス
・中世の哲学・思想
 聖アウグスティヌス ビッグバンの元ネタ?
 中世 キリスト教が支配する時代
 ほかに十字軍、トマス・アクィナス
・ルネサンスの哲学・思想
 ルネサンスと宗教改革 十字軍からの2つの革命
 ボッカッチョ 世界史を変えたエロ本
 ほかにコペルニクス、ガリレオ、ケプラー、モンテーニュ、デカルト
・近代の哲学・思想
 ニュートン 宇宙は法則で支配されている
 ルソー 民主主義を生み出した天才
 ほかにカント、ヘーゲル、イギリスの哲学・思想、アダム・スミス、リカード
・産業革命以降の哲学・思想
 ダーウィン 「弱肉強食」主義の蔓延
 ロバート・オウエン 労働者も幸せに生きるために
 ほかにマルクス、ニーチェ、フロイト、ユング
・現代の哲学・思想
 ナチズムの登場 「理性教」への疑念
 ケインズ 共産主義でも自由主義でもない「修正資本主義」
 ほかにレイチェル・カーソン、カール・ポパー、ケネス・J・ガーゲン
2 東洋思想 再解釈を繰り返す思想
・中国哲学・思想
 中国古典 いかに知恵を汲みとるか
 孔子 礼の力を思い知らせた男
 ほかに老子・荘子、韓非子、司馬遷『史記』、陽明学
3 最後に 現代の常識をイノベートするために
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