帰国後に啞然とした、ロックの終着点
――お話をうかがっていると、平野さんとロフトという場所の器の大きさに感じ入ってしまいます。ニューミュージックのミュージシャンと交流を持ちながらもパンク系にも深く関わっていたというのは、なかなかすごい振れ幅ですよね。
僕はやっぱり、反権力とか反逆とか、そういう精神がライブに現れているものをおもしろいと思ってしまうんですよ。60年代のローリング・ストーンズに感じていた反骨精神が、ニューミュージックがだんだん大きくなっていくにつれて薄れていったと思っていたら、今度はパンクが出てきて復活した。
同じ時代には、デザイナーとかスタイリストみたいな非ミュージシャンの人たちが楽器を持ってテクノをやりだしたり、かたやヘヴィメタルが盛り上がってきたり、百花繚乱になっていくんですよね。
70年代から80年代にかけて、本当に目まぐるしく動いていったわけだけど、「こんなおもしろい時代はない!」と思っていましたね。仮に客が5人だろうが6人だろうが、その渦中にいていろんなライブを見られるっていうだけで大満足でしたから。
――そういう時代を経て、1984年に突然ロフトを他のスタッフたちに託して世界周遊の旅に出てしまうわけですよね。
そうなんです。新宿ロフトの開店のときに背負った膨大な借金も返し終わって、日々の仕事も味気ない繰り返しになっていたし、だんだん疲弊していってロックへの情熱が薄れてしまったんですよ。
紆余曲折を経てドミニカ共和国でレストランを開くことになるんですけど、そのときはロフトをある程度成功させていた自負もあって、「俺がやる気になればどこでも通用するんだ」という意識がありましたね。
――奇しくも、同じ頃に日本国内ではいわゆる「バンドブーム」が起きて、いよいよたくさんのロックバンドが国民的な人気を得ることになるわけですが……。
海外にいるときにはほとんど情報が入ってこなかったんですけど、1992年に帰国して、「これのどこがロックなんだ?」っていうバンドが人気を得ていて驚いた記憶があります。
世の中に反抗するどころか、「僕は君の気持ちがわかるよ」みたいな歌詞でね。何を歌っているんだ、この馬鹿野郎は!と。学生運動の時代からだんだん虚無的な時代に移り変わっていく、そういう時代的な流れの終着点って感じがしましたよ。