政教分離なんだから
こうした試みを、池田を実際の姿よりも偉大な存在に見せようとする「虚像化」としてとらえるならば、晩年になればなるほど、その虚像化は積極的に推し進められた。
たとえば池田は、1968年に開かれた学会の学生部総会で「中国問題への提言」という講演を行い、そのなかで中国との国交回復の必要性を訴えた。創価学会は、この提言が功を奏し、1972年に日中国交回復が実現したかのように宣伝してきた。
講演のなかで池田は、「中共政権」を正式に認めることと、国連に正当な席を用意することを提言している。この提言は朝日新聞がすぐに伝え、そこに中国の政権が着目したのは事実だが、池田の講演は台湾を中国の一部ととらえる「一つの中国」を主張するまでにはいたっていなかった。
具体的に国交回復を進めたのは、自民党の田中角栄であり、その意を受けて中国側と折衝を重ねた公明党の竹入義勝であった。
創価学会は、長く公明党の委員長の座にあった竹入が党の金を横領したり、学歴詐称をしたとして、1998年から厳しい竹入批判を展開してきた。だが、日中国交回復に竹入が貢献したことは事実で、中国側は今もその点で竹入を評価している。
池田が、中国を訪れるのは提言から6年後の1974年で、その際には、毛沢東とも周恩来とも会えなかった。中国が池田を厚遇するようになるのは、やはり創価学会系の各機関がさまざまな形で友好活動を展開するようになってからのことである。
後に創価学会に反旗を翻した元教学部長の原島【嵩/たかし】は、池田が「日中国交回復の産みの親」であるかのように振る舞えるのは、瓢箪から駒のようなもので、学生部総会での提言は先駆的な発言だったが、その後の日本と中国の関係の進展のなかで、予想外に評価されたからだと述べている(「フォーラム21」2002年10月1日号)。
ただし、竹入のもとで公明党の書記長をつとめた矢野絢也は、私との対談で、日中国交回復においては、松村謙三、古井喜実、川崎秀二といった親中派の国会議員と池田との交流が布石になっており、竹入だけの功績ではないとした。
ところが、竹入は日中共同声明を出して、中国から帰国したおり、新聞記者からの「共同声明がうまくいったのは、池田さんのおかげですよね」という問いかけに、「いや、そんなことはありません」と答えたとされ、それが創価学会幹部の怒りをかったという。
矢野は、竹入の側にも「政教分離なんだから、そう言わなしゃあないやないか」という言い分があったと推測している(『創価学会 もうひとつのニッポン』)。