東海研修会入会と
師匠・杉本昌隆との出会い

年譜にも書いた通り、藤井は2010年の3月に東海研修会に入会している。

日本将棋連盟の研修会は将棋を通じて少年少女の健全な育成を目指すために作られた。当初は東京と大阪の2か所だけにあったが、のちに名古屋に東海研修会が作られ、現在は北海道、九州、東北にも組織が広がった。要するに、将棋の好きなちびっこの集まりだが、成績上位者には奨励会入会や女流棋士になる道が開ける。前にも書いたが、プロを目指すための細くて長い道の入り口がこの研修会だと言える。

東海研修会では杉本昌隆八段、中田章道七段、澤田真吾七段ら、地元のプロ棋士が指導役を務めている。「プロとの接点がある」というところが、ふみもと子供将棋教室との一番の違いだ。

ただ、入会時7歳で、まだふみもと子供将棋教室にも通い続けていた藤井にとって、研修会は楽しく将棋を学び、時には遊ぶ教室の延長線上にあった。

「初めて藤井と会ったのは、彼が小学校1年生で東海研修会に入会してきた時です。棋力はアマ初段くらいだったのかなあ。ひと際ちっちゃくて目立っていたのですが、それよりも六枚落ちの下手を持って、高度な大局観の話をしたことにびっくりしました。

下手☗5八玉型で上手から☖4六歩と打たれた時に、『☗4八歩と打つのでは玉の逃げ道がなくなる。この将棋は☗4七歩と合わせて☖同歩成☗同玉と上部に脱出するしか勝ちがない』と話していました。中段に下手の駒があって、結構手厚い形でした。だから、上部に脱出する感覚は正しいんですけど、六枚落ちの下手でそんなことを話す子どもがいるのかと感心しました。ずいぶんませたことを言う子だなあというのが、第一印象です。

小学校2、3年生になると自作の詰将棋をよく研修会仲間に見せるようになりました。それが結構難しい詰将棋なので驚いた記憶があります。指し将棋にしても、指導対局でも研修会でも安全勝ちを目指すのではなく、斬り合いの1手勝ちを目指す。見ていて面白い将棋を指すので注目するようになりました」と、のちに藤井の師匠となる杉本昌隆八段は語っている。

負けると号泣

研修会には、「プロを目指す仲間たち」もいた。藤井と同時期に東海研修会に在籍していた中澤沙耶女流二段は、「藤井二冠とは研修会で4、5回対戦しています。手合いはこちらが香落ちの下手と、平手のときがありました。

香落ちの時は上手でも無理くり居飛車をやってこられました。平手の方が強かったかな。藤井二冠は感想戦(対局後の検討)大好き少年だったんですよ。研修会は1日4局指すんですが、私も感想戦が好きだったので、次の対局が始まるまで検討が終わりませんでした。休み時間がなくなっても気にしない。自分より年上で強い人の対局でも、どんどん感想戦に入り込んでくる。物おじしない子でした」と言う。

藤井が物おじしない子どもだったことは、文本氏の言葉にもある。

「聡太が有段者になってから、教室のみんなでネット対局をやらせたことがある。先輩が悪い手を指したら、聡太が、『なんでそこに指したんだ』と大声を上げた。親しい子にははっきり言うタイプでしたね」

「負けると号泣に近い勢いで泣く」天才・藤井聡太の幼年時代…先輩の悪手に「なんでそこに指したんだ!」と大声を上げたことも_3

また、この時期の藤井には、「負けると号泣に近い勢いで泣く」というクセがあり、研修会でも有名だった。文本氏は、「最初は覚えていないのですが、教室でも幼稚園年長の頃には、もう負けると泣いていました。

特に昇級の懸かった対局で、年上の強敵に負けた時はしっかり泣いていましたね。聡太が2年生の時に、愛知県の強豪大学の将棋部とうちの教室の対抗戦をやったことがあります。聡太が大将だったんですが、相手の大将にいい将棋を逆転で負けた。あの時は、周りも驚くほどの勢いで泣きましたね」と言う。

2010年10月のJT東海大会低学年の部で藤井は準優勝したが、決勝戦で敗れた和服姿の藤井少年が号泣するシーンが今でもテレビでよく流れる。その時、優勝したのが藤井より1学年上で今、奨励会にいる中西悠真三段だ。中西三段は三重県出身で、東海研修会でも藤井と対戦している。

「藤井先生とは自分が小学校3年生の時からたくさん指してきました。負けるとすごく悔しがる。でも、昔から強かったです。JTの決勝では勝たせてもらいましたが、そのあとはずっと上を行かれていますから。藤井先生の将棋は終盤の精度がすごい。いつか、もう一度大きな勝負で戦いたい」と中西三段。

研修会時代の藤井は、果敢に上位者との対戦に挑み、感想戦に口をはさみ、負けると大泣きする少年だった。多数の証言もある。ところが、現在の藤井にその話をすると、「ほとんど覚えていないんです。そういう子だったんですね」と笑う。

思うに、笑ったり、泣いたり、怒ったりしていたのは幼い藤井少年の素直な感情の発露で、本人は無意識のうちにやっていたのだろう。10歳で奨励会に入るころから、藤井少年の対局スタイルはがらりと変わる。そこには大人の世界への脱皮があった。