80回もの改稿を重ねた提言書
――そこで積極的な役割を果たしたのが専門家たちですが、彼らの「危機意識」や「政治に対するスタンス」も一枚岩ではなかった。
感染が下火になっていく局面では、平時への移行をいそぐ「経済の専門家」と、ふたたびウイルスが強毒化するリスクを心配する「感染症の専門家」の間で議論が分かれました。
さらに2022年8月には、政府が二の足を踏む中、専門家有志が平時に向けたシナリオのプランを提言し、一歩踏み出します。岸田政権はのちにこれを追認していくことになりますが、この案をめぐっては「医療の専門家」の間でも意見が分かれることになりました。
――『奔流』の書きぶりからは、尾身茂さんの存在が大きかったように感じました。もしも彼がいなければ、委員たちが分裂したり、メディアでの批判合戦などに発展した可能性もあったのでは。
そうですね。専門家コミュニティーのまとめ役の尾身氏は、会見すれば2時間に及ぶこともしばしば、記者たちからも「もっと端的に」と言われたり、ウイルス学の専門家から「ちょっと理解が違う」と言われて言い直したりなど、大丈夫かなと思わせるところもあるんですよね。ただ、雄弁ではなくとも、対策を決める前後で、必ず説明者として登壇しました。批判から逃げず立っている人がいる、ということが大事だったと思うんです。
それだけでなく、公的な会議の合間に専門家同士が率直に意見をぶつけあう場では、何度も議論を蒸し返して「この表現は?」「こう変えたらどうか」と修正や修文を重ね、対立した人と人の間で合意できるポイントを探り続けた。前出の提言ペーパーはじつに80回もの改稿を重ねたそうです。少数意見との違いを埋めるためにあそこまでエネルギーを注ぐ姿に、私は生き方を学んだ」と述懐する専門家もいたほどです。政治が後衛に退く中でも専門家組織が中心を失わず、空中分解しなかったのは、そうした尾身氏の個性が果たした役割が大きい。
――けれど、尾身さんらの分科会は昨年8月には廃止され、9月から「内閣感染症危機管理統括庁」が発足しました。
さまざまなケーススタディが行われているようですが、官僚の備えで切り回せるほど、危機の展開は待ってくれそうにないことが盲点になるかもしれません。