キャロルというバンド名はメンバーのジョニー大倉が思いついた

デビューに至るまではバンド結成から半年、テレビで発見されてからだと2カ月もかかっていない。まさに電撃的なプロ・デビューだった。

結成当初から、キャロルはドイツのハンブルグで武者修行をしていた、革ジャン時代のビートルズを目指していた。バンド名はメンバーの一人、ジョニー大倉が思いついたものだ。

「オレはさぁ、ゴールデン・バットがイケてると思うんだけど」
 永ちゃんが言った。
「ルーシーっていうのはどうかな?」
 ウッちゃんが言った。
「ジョニーはさぁ、何がいいと思う?」
 永ちゃんがぼくに訊いた。
「キャロルっていう名前がいいよ」ぼくは答えた。
 ぼくの頭の中には『クリスマス・キャロル』の神聖なイメージがあった。なぜだかわからない。でも、このバンド名以外にピッタリくるものはない、と直感したのだ。
(ジョニー大倉著「キャロル夜明け前」主婦と生活社)

それまでもジョニー大倉は「アンナ」と「ジュリア」という、女の子の名前のバンドで活動してきた。「ヤマト」や「ゴールデン・バット」ではなく、西洋的で優しい響きの「キャロル」になったのは、奇しくも矢沢永吉とジョニー大倉という個性の対比をあらわしていた。

「最後までノッていけよ!」矢沢永吉の掛け声で始まった熱狂ステージ…キャロル解散コンサート最終日で起こった完全に想定外のトラブル_3

キャロルは二人の異なる資質と才能が化学反応を起こして、音楽シーンに大きな波紋を投げかけることになる。

ノンフィクション作家の田家秀樹が初めてキャロルを見たのは1972年12月16日。東京の赤坂にあったディスコ『MUGEN』で開かれたクリスマス・パーティーだった。

デビューを目前にした業界向けのコンベンションだったが、田家は文化放送の深夜番組『セイ! ヤング』の機関紙『ザ・ヴィレッジ』に、その時の感想をこう書いていた。

演奏は粗削りだが実に小気味よい。ともかくこれが日本人かと思うほどバタ臭くて美しい。そして甘美なまでの若さ。
日本の本物のロックンローラーたちの誕生をつげる叫びかもしれない。

キャロルが登場したのとほぼ同時期に、日本の音楽シーンを革新的に変えていったサディスティック・ミカ・バンドのリーダーだった加藤和彦と、ギタリストの高中正義も、その日なぜか同じ場所に居合わせた。

高中がそれから40年以上の歳月が過ぎて、J-WAVEの『FM Colorful Style 』に出演(2014年9月)した時に、こんなエピソードを披露している。 

矢沢永吉さんとはね、昔から接点があって、キャロルがデビューした時に赤坂のMUGENってところで、大晦日あたりにお披露目のパーティーがあったんです。加藤和彦さんとシャンパン飲みながら、キャロルってカッコ良いねって見てた。そのあと何年か経って、サディスティック・ミカ・バンドとキャロルでツアーをしたことがあるの。