戦国の世を“走り勝った”徳川家康。「大坂夏の陣」前後の尋常でなかった移動距離
NHK大河ドラマ「どうする家康」がいよいよ最終回を迎える。ところで、家康が最終的に戦国の覇者となった遠因は、実はその「移動距離の多さ」にあったのかもしれない。歴史作家・黒澤はゆま氏が自ら古戦場を走り、その実感を記した歴史愛溢れる著書『戦国ラン』(集英社インターナショナル)から一部抜粋・再構成してお届けする。
戦国ラン
73歳で100㎞超を移動
夏の陣前後の家康の足取りを追ってみよう。まず5月5日、京都二条城を発ち河内星田に着陣(約30㎞)。6日、星田から千塚に移動(約18㎞)。7日決戦の日、千塚から平野を経由して茶臼山に(約16㎞)。この間、真田信繁に追い回されて殺されそうになる。
8日、秀頼母子切腹の報を聞き、茶臼山を出て大坂城の焼け跡を見回った後、この日のうちに京都二条城に帰還(約50㎞)! 合計114㎞。
無論、馬も使ったのかもしれないが、乗馬だって激しく体力を消耗する全身運動だ。レクサスの後部座席で高いびきをかくのとはわけが違う。
家康からすれば、
「73歳の俺が100㎞以上も走り回って休みもなく働いている。なんで、まだ若いお前らが、途中で走るのをやめて、淀くんだりで息抜きしてるんだ。馬鹿野郎」
ということだったのだろう。
戦国時代、最後の勝者は、皆が走るのをやめても走り続けていた。家康は走り勝ったのである。
文/黒澤はゆま
2022年6月7日発売
968円(税込)
新書判/256ページ
ISBN:978-4-7976-8102-4
合戦の舞台を、歴史小説家がひた走る!
「手柄は足にあり」という上杉謙信の言葉の通り、戦国時代を生きた人々はとにかく歩き、そして走った。戦国武将たちが駆け抜けた戦いの道を、歴史小説家が実際に走り、武将達の苦難を追体験する。彼らは何を思い、そして願いながら、戦場をひた走ったのか? 合戦の現場を足で辿ることで、文献史料を読むだけでは分からない、武将と戦いの実像が見えてくる!?
――第1章より
戦国ラン、第1走目は「大坂夏の陣」でいくことにした。夏の陣のクライマックス、慶長20年(1615)5月7日の「天王寺・岡山の戦い」において、真田信繁(幸村)が徳川家康本陣に突撃したルートを実際に走ってみるのだ。
この戦いを取り上げた理由だが、信繁による家康本陣切り込みは、戦国最後の見せ場であり、戦場の上町台地は大阪在住の私にとって土地勘のある場所である。また、狭隘な台地上で争った天王寺・岡山の戦いなら走るルートが短くてすむ。なんといっても大して運動経験のないアラフォー。いきなり、佐々成政の「さらさら越え」なんかにチャレンジすると、死にかねない。それに今回の企画は走ることだけでなく、ルートを突き止めることも重要なポイントとなる。
――目次より抜粋
第1章 大坂夏の陣
実は幻なのか? 信繁による家康本陣突撃/街道の分捕り合戦/西軍最後の防衛線 清麻呂の運河跡/迷子になったのは誰か?/戦場は天王寺駅/家康本陣が崩れた場所/家康はどこまで逃げたのか/信繁、終焉の地へ
第2章 本能寺の変
報告上手な冷血漢、光秀/古代の道、中世の道/首塚大明神から沓掛へ/光秀の決断の地/悪女のような京都/信長の油断/ついに本能寺へ、その現在の姿は……
第3章 石山合戦
ツーといってドン/軍隊はなぜ真っすぐ進めなかったのか/環濠都市、萱振/商人の街、平野/住吉大社/熊野街道/遠回りの理由
第4章 桶狭間の戦い
開けっ広げな清洲の町/海の底だった名古屋/「あるかぎり走りまどひ過ぎ」た信長/郷土防衛戦争だった桶狭間/計画外の行動をした義元?/夜になってゴールした桶狭間古戦場公園
第5章 川中島の合戦
川中島の名の由来/攻防一体の名城、海津城/天然の要塞/海津城から妻女山へ/十二ヶ瀬から千曲川を渡る/明けてびっくり! 眼前に敵/英雄一騎討ちへ/残業6時間15分の戦い