戦争の影が一体どこにある

1月2日(月)。ロシア正教のクリスマスは1月7日(土)なので、このカレンダーだと1月9日までこの国の人々はおそらく休む。働かないだろう。だんだん思い出してきた。この国の現実というものを。例によって時差調整に失敗して午前4時半に目が覚める。外をみると煌々とライトアップされている旧ウクライナホテルが目に入ってきた。

モスクワに来てから初めての快晴。今日はいろいろと外に出てみることにする。30年ぶりに会った友人たちもいる。今回の旅は、半ばセンチメンタル・ジャーニーのような要素もあるのかもしれない。そのうちの1人の彼は、年齢ももう76歳だ。だが至って元気な様子。歯がもう1本しか残っていないと言って笑っていた。一緒に車で動いた。

アルバート通りのヴィクトル・ツォイの壁。ロシアの地方からやって来たのであろうか、観光客らがしきりに記念写真を撮っている。アルバート通りを離れて、近くの大通りを歩いていたら、スターバックス撤退後、そのままノウハウをちゃっかりいただいて営業を継続している「スターズコーヒー」が近くにあった。モスクワ市内に複数の店舗があって結構賑わっていた。「ユニクロ」があったが現在休業中。

新年を祝うバカ騒ぎテレビ番組、笑顔溢れる赤の広場、記念撮影をする人々…戦争の影が微塵も見えない2023年1月1日のロシアで考えたこと_4
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だがインターネットで商品の購入が可能だと店頭に表示があった。移動して、ゴーリキー文学大学近くの本屋さんに入ってみる。何気なく書棚に並ぶジョージ・オーウェルの著作集。

『1984年』や『動物農場』は、今のところロシアの人々に読み継がれているようだ。手に取ってみると装丁がなかなかいい。購入する。午後になってから街の人出は徐々に多くなってきている。この素晴らしいお天気のせいか。今の時期にしては、きのう今日と暖かいのだそうだ。ルイノク(自由市場)に行ってみると、もう営業していた。新鮮な食品で溢れかえっている。中央アジア系の売り子さんが多い。

東京から持参してきた自動翻訳機が非常に役に立って本当に助かった。今回は1人でモスクワに来たので、これがあるのとないのでは全く違ったように思う。さっそくこれを使って道行く人々に街録を試みた(ピャートニツカヤ通りにて)。

「日本からやって来ました。ロシア語が下手なので、この翻訳機に助けてもらいながら、答えてくれませんか」と語りかけると、ほとんどの人が答えてくれた。非常に興味深かったのは、「テレビのニュースを信用していますか?」に対する答え。

ほとんどの人が「ニエット」(信じていない)だ。また、「ロシア国旗を美しいと思いますか?」については、ほとんどの人が「ダー」(はい)、「2023年はよい1年になると思いますか?」についてもほとんどの人が、よい1年になると答えていたことだ。何の迷いも衒いもなく。若干躊躇がみられたのは「あなたは民主主義を信じていますか?」に対する答えだった点も面白い。

「丸亀製麺」が撤退した後のお店は「マル」という名前に変更になって、そのままうどん屋さんチェーン店として賑わっていた。せっかくなので入ってみた。大変な人気ぶりである。店員は中央アジア系の人々が多く混じっている。味もそんなにまずくない。今日の「観光」の締めくくりに、モスクワ大学の前の展望広場(雀が丘)に行ってみる。

すごい数の人々が繰り出していた。高層ビジネスビル群の通称「シティ」がまぶしい。これは発展の姿なのだろうか。大体、人々はこのような高層ビル群を望んでいるのだろうか。僕には、新しい形のスターリン建築様式に見えるような気がする。だがこの展望広場にいる人々はそんな陰鬱な考えなど微塵もないように、家族、友人ら、恋人同士で、記念撮影に明け暮れている。

戦争の影が一体どこにあるというのだ。あるのはロシア公共テレビのなかのニュース番組『ヴェスチ』や、愛国的な歌謡ショーに紛れ込んでいる歌手たち、司会者たちの振る舞いだけのようにさえみえる。そのことがかえっておそろしい。

友人の1人が言っていた。モスクワの治安に関して言えば、チェチェン戦争の時の方がもっと危険だった。あの時はモスクワでは頻繁にテロ事件が起きていた。それに比べれば、今のところ、モスクワに関して言えば何の問題もない、と。本当だろうか。

1932~33年のホロドモール時代のモスクワの繁栄と、ウクライナで餓死者まで出ていた現実のことを、よくよく思い出すべきではないのか。パラレルワールドは、体制の信奉者たちによって創りだされたものだ。


写真/shutterstock

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金平 茂紀
新年を祝うバカ騒ぎテレビ番組、笑顔溢れる赤の広場、記念撮影をする人々…戦争の影が微塵も見えない2023年1月1日のロシアで考えたこと_5
2023年9月20日発売
1,056円(税込)
文庫判/480ページ
ISBN:978-4-08-744567-1

1991年ソビエト連邦崩壊。2022年ロシアによるウクライナ侵攻――
30年前と現在、変わったもの、変わらないものとは。
記者・金平茂紀が見た「大国ロシア」のありのままの姿。

1991年から94年、ソ連崩壊前後の激動の時代をTBSモスクワ支局特派員として過ごした著者が見たロシアの実態、そこに生きる人々との交流を書簡と日記形式で綴る。そして時は流れ、2022年ロシアはウクライナに侵攻する。開戦直後にウクライナを訪れた際の日記、22年~23年の年末年始にモスクワを訪れた際の記録を追加収録。著者の体験を通し、「大国ロシア」とそこで暮らす人々の本質に迫る。
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