同性婚やパートナーシップ制を
認めればそれでいいのか?
しかしここで注意すべきことがある。同性婚やパートナーシップ制を認めればそれでいい、というわけではないことである。アメリカの判決は、異性単婚制と並んで同性単婚制をも法的に認める、というものであるにすぎない。
法廷意見では「婚姻は、愛、忠誠、献身、犠牲、家族の崇高な理想を体現する」ものであり、(同性同士であれ)二者間の性愛に基づく関係は、その「崇高な理想」を体現するものであるから、法はそうした関係を過不足なく保護しなければならない、と言われている。法によって保護されるべき結婚の仕方は相変わらず限定されている。二者間で「崇高な理想」を体現するものでなければならない、というのである。パートナーシップ制も異性であれ同性であれ、人間ふたりのカップルを当然の前提としている。
ということは、欧米のほとんどでも、〈まともな結婚〉とはふたりの個人によってなされる単婚に限られる、という古い「常識」からいまだに脱していないということだ。
なぜ複合婚がいけないの?
今日、LGBTQなど多様なセクシャリティを平等に承認すべきだという気運が欧米で高まりつつある。もちろん、世界の中にはいまだに同性愛を犯罪としている国々も少なくないし、アメリカの中でも州によっては同性愛や同性婚を認めないところもある。
とはいえ、LGBTQ差別をやめようという社会的合意が醸成されている国や社会では、それに伴って人と人との結びつき方、ひいては結婚の仕方も多様であってよく、したがって国にとって〈特定の〉結婚だけを合法化し、そうでない結婚を差別することをやめるべきではないだろうか。
ところで、アメリカの同性単婚を合憲とした判決の法廷意見を反対解釈してみよう。すると、いわゆる複合婚は合法化できない、〈異常な〉婚姻として保護されるべきではないという話になる。
複合婚の例としては、三者以上で性愛関係を営む関係(一夫多妻、一妻多夫、多妻多夫、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの複合婚など)、シングル・ペアレント、他者と性的関係を結びたくない人、生涯独身者、子を持たない夫婦、等々があげられる。
これらの多様な性愛の例示を見て、理由もなく眉をひそめる人々もいることだろう。とくに現代日本ではなぜか、不倫が発覚した有名人を異常なほど叩いて引きずり降ろす傾向がある(他人に関係のないプライベートなことなのにね)から、一夫多妻、一妻多夫なんてもっての外、絶対に認められないと言われそうだ。
だが性愛のかたちはその人のセクシャリティによって多種多様だ。同時に複数の人々(異性であれ同性であれバイセクシャルであれトランスジェンダーであれ)を深く愛しうる人々もいるし、そのように愛されることを喜んで受け入れる人々もいる。
相手を愛するものの性的欲求をもたない人々もいる。パートナーはいらないが子は欲しいという人々もいる。逆に子をもうけたくない夫婦もいる。当事者同士が満足しており、他の人々に危害を与えることがなければ、これらの関係を非難する必要はないのではないか。
ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』で、19世紀当時のイギリスの世論の多数がモルモン教徒の一夫多妻制を力によってやめさせるべきだと公然と主張していたことに対してこう述べた。
「彼らと全然無関係な人々が踏み込んで、直接利害関係のある全ての当事者が満足しているように見える社会状態に対して、その制度と全然無関係な数千マイルの外にある人々にとってそれが憤激すべきことだからといって、その廃棄を要求しなくてはならないというようなことは、私には到底承認できないことである」
彼も個人的には一夫多妻に批判的ではあった。しかしその関係がモルモン教信者の女性たちの自発的な意志に基づいているものであり、かつ一夫一婦制を採っている国々の人々に信者が自分たちの婚姻制度を強要している訳ではない以上は自由にさせておくべきである、と考えていたのである。
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