不貞を訴えると伝えて慌て始めた晴恵
それで?
「さすがに私も腹に据えかねて、わかった、じゃあ私もあなたを不倫で訴えさせてもらうわねって言ったんです」
おお。
どう返って来ましたか。
「彼女は『あなたが恥をかくだけよ』って。『たとえそうだったとしても、そんな昔のことなんてもう時効だし訴えられるわけがない』って笑いました。だから私、言ってやったんです。知らないようだから教えてあげるけど、浮気の時効は20年、あなたは7年前まで夫と会っていた、私がそれを知ったのはつい最近だし、浮気消滅時効は3年ある。だから、いくらでも訴えられるのよって」
詳しいんですね。
「インターネットできっちり調べさせてもらいましたから」
相手の反応はどうでしたか。
「慌て始めましたね。それで、会うといったって年に数回のことだし、お茶を飲みながら世間話をする程度のことだから浮気じゃないって。それなら、調停の場でそう言えばいいんじゃないって返したら、絶旬していました」
不謹慎ではあるが、ちょっとスカッとする。
「晴恵はすっかり黙り込んでしまって、話にならなくなったから、最後に、いつ裁判所から呼び出しがかかるかわからないから覚悟しておいてね、と言って電話を切りました」
あの時私が苦しんだのと同じくらいの時間を、
彼女にも味わわせてやる
彼女は今、どんな気持ちで過ごしているだろう。
「そりやあ、落ち着かないでしょうね」
それにしても、本当に訴えるつもりですか。
「余命のことがありますから、たとえ訴えたとしても時間切れになるでしょうね。ただ、少なくともあの時私が苦しんだのと同じくらいの時間を、彼女にも味わわせてやるつもりです」
そして、郁代さんはまっすぐな目を向けた。
「私ね、命が限られたと知ったら、人はきっと悟れるに違いないと思っていたんですよ。すべてに感謝し、すべてを赦し、誰も恨まず憎まず、仏のような気持ちになってあの世に旅立てるんじゃないかって。ましてやこの歳ですし。でも、実際はそうじゃなかったですね。本音を言うと、今、とても爽快な気分なんです。もしかしたら訴訟可能な3年くらい生きられるんじゃないかって思えるほど」
実際、とてもエネルギッシュに見える。
「もし、彼女のことを胸の中にしまったままあの世に行ってしまったら、ちゃんと成仏できなかったんじゃないかしら。彼女の枕元に化けて出るかもしれません。現世の決着は、やっぱり現世で付けておかなくちゃね」
そう言って郁代さんは快活に笑った。
若い人からしたら、いい年をした大人が、
と呆れるだろう
恋愛話ではなかったが、それに勝るとも劣らぬ濃い話を聞かせてもらった。
郁代さんの最後の落とし前をどう思われただろう。死期を悟っても、決して赦そうとしなかった決断に、様々な感覚を持たれた方がいるだろう。
「昔のことなんだから水に流してあげればいいのに」
「世俗の感情など捨てて死を迎える方が本人も気が楽なのでは」
それは確かにもっともな意見だが、逆に、溜飲を下げた方もいるはずだ。
「なぜ、された方が黙って許さなくてはならないの」
「それが生きる励みになるなら容赦なく叩きのめせばいい」
そっち側に手を挙げる人もいるだろう。
私は、理想としては後者だけれど、きっと納得できないまま、黙って終わらせてしまうタイプのような気がする。とはいえ、その状況になってみないとわからない。私にも、私の知らない私がまだまだ埋もれているに違いない。
そして、郁代さんの話を聞きながらも、実のところ、晴恵さんの言い分も聞いてみたかったというのがある。
30年もの間、家族と友人を裏切り続けて来たエネルギーは、どこから湧いて来たのだろう。ずっと心の中に抱えていた仄暗い何か。たとえば郁代さんに対する競争心や嫉妬心。相手が郁代さんの夫でなければ、関係は持たなかったのではないか、とも思える。世の中には「あの人より幸せだ」と思うことでしか自分の人生を肯定できない人間もいるのである。晴恵さんもそんなひとりだったのかもしれない。
若い人からしたら、いい年をした大人が、と呆れるだろう。それも自分の親年代の恋愛がらみの揉め事など、聞きたくもないと感じる方も多いはずだ。
けれど、いつか、その年齢になればわかる。
大人になっても、いやなったからこそ、人知れず、けれども確実に、恋愛はそこここで繰り広げられている。恋愛を前にすると、そこにいるのはただ心を拗らせた少女と少年でしかないのである。
わかって欲しいとは言わない。どうせ、いつか気づく時が来る。その時「これがそうか」と思い出してもらえると嬉しいが、もちろん忘れているだろうし、それでいい。そうやって私もこの年になってしまった。
さて話は逸れるが、双方共に郁代さんぐらいの年齢で恋愛中のカップルがいる。互いに独り身。それぞれの家を行き来し、食事に出掛けたり、時には旅行したりと、後半の人生を楽しんでいる。互いの家族も受け入れているという。
女性はこう言っている。
「もう嫁も妻も母親も卒業したんだもの、籍も入れないし同居もしない。一緒に暮らせばいろいろ摩擦があるのはわかっている。もう命の限りも見えているんだし、喧嘩なんかに時間を使うのはもったいないじゃない。本来、恋愛は楽しむもの。人生の総仕上げを目前にして、ようやく本当の恋愛ができている気がする」
好きという気持ちだけでいい、他に何もいらない。恋愛とは、この一瞬のために永遠を捨てても構わない、と思えること。そう思えるのは、老いてからの恋しかないのかもしれない。
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