男性の性暴力=「凶器で脅される」?

また、男性の性暴力被害は、あったとしても「(刑務所などの)特殊な場所でしか起こらない」「ナイフや凶器を突きつけられてレイプされる」ものだと思われているふしもあります。確かに、そのような被害も実際に起こっています。立場や物理的な脅威、「殺されるかもしれない」という恐怖感を利用した悪質な行為です。

しかし、2009年のアメリカでの研究によると、同意のない性交(肛門にペニスや指などを入れられる、無理やり挿入させられる)を経験、あるいは強要されそうになった男性のうち、凶器を使用された人は5%、怪我をした人は11%、何かしらの脅しがあった人は23%、実際に挿入までされた人は32%であり、社会の思い込みに反して大部分の被害者はそのような明白な暴力を経験しているわけではないことが明らかになっています。

しかも、同意のない性交を経験した男性のうち、医療機関などに援助要請した人はわずか29%で、多くの人はどこにもSOSを出していません。他の調査でも、似たような結果が出ています。

このように実際は異なるにもかかわらず、男性の性暴力に対して社会の(翻って個人の)思い込みがあるため、その枠組みに入らない性暴力、例えば友人や知人から同意もなく性器を触られる、女性から性行為を強要される、マスターベーションを手伝わされたり、自分で行うことを強要されたりするなどの行為をされると、「あれは一体何だったのか」という混乱と疑問、拭えない気持ち悪さや不信感などで頭と気持ちがいっぱいになると思います。

「嫌なのに身体が反応してしまう」生理現象…同性からの性加害を受けた男性が被害を即座に認識できない理由とは_3

「身体が反応」するのは自ら望んでいたから?

たとえ同意のない性行為であっても、生理的な反応として勃起したり、射精したりすることがあります。このようなことが起こるため、気持ちの中には自身に収めきれない不快なかたまりが存在しても、「自分も望んでいたのか?」「嫌だったけど身体は気持ちよかった」と混乱し、自分が体験したことが何だったのか分からなくなるということも起きます。

また、相手が「気持ちいいんでしょ」とたたみかけてきて、混乱に拍車をかけられることもあります。

このような、実際に起きていることと自分の気持ちとの不一致は、「認知的不協和」とも言われます。人は矛盾のある状態は不快であるため、自分の気持ちを変えようとしたり、起こっていることを過小評価したり、新たに「こうかもしれない」と考えを加えたりすることで、その矛盾をなくそうとします。

例えば、「仕事の量が多すぎるから職場を変わりたい」けれども「上司に言い出せない」ような場合、「他の人もこなしている」「もっと大変な部署だってある」と仕事量の多さを過小評価したり、「もっと慣れてきたら大変だと思わなくなるかもしれない」「仕事の量が多いのは一時的なことで、しばらくしたら落ち着くかもしれない」などと考えを加えて、自分の中の矛盾を解消しようとしたりします。

同じようなことが性暴力を受けたときにも起こり得ます。相手が男性である場合は、セクシュアリティの混乱も起こり得ます。被害に遭った後、「自分は同性愛者なのではないか」と考える被害当事者もいますが、その理由の一つには、嫌だったにもかかわらず性的快感を抱いてしまった、ということがあると思います。

異性愛者であるなら性的快感を抱くはずがない、だから自分は同性愛者なのかもしれない、と自身の中にある認知的不協和を解消しようとします。もし自分が同性愛者だったら、あの不快な(あるいは奇妙な)体験は純粋な性行為だった、とさらに進んで思い込もうとする被害当事者もいるかもしれません。

そのような、自分の身体の反応と気持ちとのギャップの大きさから、体験したことを「被害」と認めがたく、自身の考えを変えることで違和感や不快感をなだめようとする心の働きもあるのです(あるいは体験を「被害」「嫌なこと」であると認めても、自分は同性愛者なのかもしれない、同性愛者になったのかもしれない、と思う被害当事者も多くいます)。

いまだ異性愛中心主義で、同性愛に対する理解の乏しい社会においては、同性愛恐怖が存在しています。同性愛や同性愛者についての根拠のない思い込みや差別感情が社会全体にあり、そのため自身が「同性愛者だとしたらどうしよう」とさらなる不安を持つ被害当事者もいます。人の持つ自然な性的指向の一つとしての同性愛に対して社会に偏見があることも、被害当事者の不安と結びついていると言えるでしょう。