ちょっと待て、ここには人がいる パレスチナ人はどうなる?
もちろん、ヨーロッパのユダヤ人が経験した歴史や不幸は、19世紀にユダヤ人移民が到着しはじめた頃のパレスチナの住民には何の関係もない。
19世紀のシオニストは、そこへの「帰還」を切望していたパレスチナを「土地なき民のための民なき土地」と表現した。この有名な言葉の唯一の問題は、それが間違っていることだった。
パレスチナには、われわれが現在パレスチナ人と呼ぶ人びとがすでに住んでいたのだ。新たにパレスチナにやってきた人びとに祖国を奪われたことは、忘れがたい悲劇である。
それは依然として開いたままの傷口であり、こんにちまでパレスチナ人を、そしてイスラエル人を苦しめている。
パレスチナ人の起源は複雑で、少々わかりにくく、この物語に関わるほかのあらゆる事柄と同様、論争や異論にさらされている。
一説によれば、現代のパレスチナ人は、聖書時代のカナン(旧約聖書で、神がイスラエルに与えたとされる約束の地)人やペリシテ人(「パレスチナ」という名称はここに由来する)の直系の子孫とされる。
この説は、エルサレムの地に対して、より「正統な」権利を持つのはユダヤ人かパレスチナ人かという果てしない論争に、ある種の攻撃材料を提供する。
パレスチナ人がカナン人の子孫だとすれば、当然ながら、パレスチナ人はユダヤ人より長くその地に住んでいることになるからだ。というのも、聖書によれば、ユダヤ人はカナン人を侵略して征服したとされているのだ。
しかし、パレスチナの大義の信奉者の中には、この説を批判する者もいる。
なぜならこの説を認めるということは、ユダヤ人は大昔からこの地と関わりを持っており、最近ヨーロッパからやってきた入植者ではないというシオニストの物語を認めることになるからだ。
こうして、この説はパレスチナ人が拒否する考え方、つまり、ユダヤ人とパレスチナ人は、この国の支配権をめぐって何千年も争ってきたという考え方にお墨付きを与えてしまうのである。
パレスチナ人の一部はおそらく、ユダヤ人の子孫
より最近の本格的な研究によって、次のことが明らかになっている。
パレスチナ人は、何世紀にもわたってパレスチナに存在してきたさまざまな民族や文明が混ざり合って生まれたのであり、そうした民族には聖書に登場する古代の住民も含まれているのだ。
この土地に住む人びとは、時と共に、最も支配的な集団の宗教(土着の宗教、ユダヤ教、キリスト教、そして最後はイスラム教)や言語(ヘブライ語、アラム語、最後はアラビア語)を選んできた。
お気づきのように、ここには一つの皮肉がある。現代のパレスチナ人の一部はおそらく、少なくともある面で、彼らが対立している当の人びと、つまりユダヤ人の子孫なのである。
キリスト教国であるビザンティン帝国〔東ローマ帝国〕がこの地を統治していた期間、つまり4世紀から7世紀にかけて、パレスチナの住民の大半はキリスト教徒になった。
ところが、638年に新興のイスラム帝国がパレスチナを征服すると、19世紀までにほとんどの住民がイスラム教に改宗した。アラビア語が主要言語となり、それ以降、パレスチナの住民の多くは基本的に自らをより大きなアラブ世界の一部と見なすようになった。
エルサレムがキリスト教の支配下にあった数世紀のあいだ、ほとんどのユダヤ人はその地から追放されていたが、アラブ人の統治者は彼らの帰還を許した。
エルサレム旧市街の「神殿の丘」、つまりユダヤ第二神殿(ローマ人はそれを破壊し、キリスト教徒の統治者はゴミ捨て場として使っていた)があった場所に、イスラム教徒のアラブ人征服者は、初期イスラム建築としては世界屈指の重要性を持ち、驚くほど美しく、おそらく現在までエルサレムの最もわかりやすいシンボルとなっている「岩のドーム」(692年完成)を建設した。