制約のある中で考える作詞は俳句と似ている
堀本 実はこの句の解説で抜け落ちたことがあるんです。「橙」は夕日の象徴ですよね。「落ち葉」の「落ち」は、「橙」=夕日が「群青」という青空に「落ち」た、という「落ち」が掛け言葉的に使われているんです。掛け言葉も俳諧ではよく用いられる技法の一つですね。
ところで、この句はパッと浮かんだのでしょうか。
児玉 自然に出てきたという感じです。
堀本 事前にご提案した兼題が、「初冬(はつふゆ)」「落葉」「帰り花(かえりばな)」の三つだったのですが、なぜ「落葉」を選ばれたのでしょう。
児玉 初冬って、どこか情景として美しすぎるような気がして。落ち葉が一番身近に思えました。素材として素朴なものがよくて。
堀本 気づいたのですが、児玉さんのエッセイの中の「けれど、いくら言葉を尽くしてもたちどころに枯葉になってしまうような瞬間に立ち会ったのは、おそらくそれが初めてだった」という一文は、歌詞にも似た言葉があったような。
児玉 私はあまり言葉の力を信じていないときがあるんです。言葉という単語を作り出した紀貫之(きのつらゆき)は、言葉を「心という種から生えてきた葉」だと言っています。花ではないのだな、と驚いたことがあります。実を結ぶものが多い花ではなく、葉っぱなのか、と。
上手く言えないうえに私の感性でしかないんですが、言葉にした瞬間に何かが終わってしまう、という感じがしまして……。
堀本 さっき僕が言った、歌詞にも似た言葉というのは、児玉さんが作詞されたつばきファクトリーの「三回目のデート神話」にある「しょせん言葉は枯葉」というフレーズなんですが、これも児玉さんの言葉に対する考えの一つなのかなと思ったんですね。
でも、児玉さんが歌詞も小説も言葉を紡ぎ続けているのは、誰かに伝えるという面もありますよね? そこに相反する気持ちもあるのでしょうか。
児玉 ありますね。書くことは好きなんです。メロディに合わせて歌詞を書くと、意味が後から出てくるのはよくある現象で、それは楽しいのですが、人から「この歌詞の意味はこうですよね」と聞かれると、そうだっけと戸惑うことも多い。言葉をあまり信用していない、でも嫌いでもない。自分でも適切な距離がまだわかりません。
堀本 歌詞でも小説でも、作っているときはいろんなインスピレーションや刺激を受けたり、うわっと集中して書いたりするけれど、出来上がって人々に披露する段階になると、創作時から時間も経っているせいか、自分と言葉がある意味離れてしまうのかもしれませんね。
児玉 堀本さんもそういう感覚はありますか?
堀本 ありますね。創作時から時間が経つことで、創作物に客観性が宿るのかもしれません。だから作者との距離も離れてしまう。俳句の場合は、作っているときに内容ばかり伝えようとすると説明的になってしまうことがあるんです。逆に韻律を整えていくと、さっき児玉さんが言われたように意味が自ずとついてきて、内容も調べに沿うようになる。俳句も韻律、音が非常に大事ですね。
児玉 昔、ヒャダインさんと「作詞は俳句に似ている」と話していたことがありました。作詞は調やリズム、メロディが決まっているという制約のある中で考えるところが俳句と近いと思っていて。だから、堀本さんからオファーをいただいたときに、句を作るのは未経験でしたが不安はありませんでした。決まっていた季語を入れて、五七五で、少し崩してもOK、と思っていたら、すっとできました。
堀本さんは俳句を作るときは即興なんですか?
堀本 即興で作りますが、完成させるまでに何日も何ヶ月もかかるときもあります。十七文字がパッと浮かんで一文字も直さない、なんていうのは本当にまれで、やはり推敲を重ねることが多いですね。芭蕉も何度も推敲を重ねていますが、現代の俳人も同じです。
芭蕉の句を含めて、お互いに近世の句を選んだら
――今回はお二人の新刊のテーマに合わせて、対談の前に、芭蕉の句を含めた近世の俳句を三句ずつ選んでもらいました。お二人それぞれの好みが伝わる選句ですね。
堀本裕樹さんの選句
道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり 芭蕉
岩鼻やこゝにもひとり月の客 去来
鮎(あゆ)くれてよらで過ぎ行く夜半(よは)の門 蕪村
児玉雨子さんの選句
いなづまや闇の方行(かたゆ)く五位(ごい)の声 芭蕉
闇の夜(よ)も又おもしろや水の星 鬼貫
行(おこなへ)ば三人の道ことにして
死罪流罪に又は閉門 宗因
堀本 僕は一句目に芭蕉の「道のべの木槿は馬に食はれけり」を選びました。これは馬上で吟じた句で、普段よりも視点が高い状態にあるときに、不意に馬が木槿をむしゃむしゃ食べたのを見た。今まで咲いていた木槿が一瞬にして消えてしまったあわれ、それを食べる馬のあわれ、それを見て驚く芭蕉という、その三つによって情景が立体的に見えてきます。まるで時代劇の映像の一コマのように思えてくる。それをシンプルにさらりと詠んだ芭蕉の粋を感じました。
児玉 芭蕉は馬の描き方が独特。『おくのほそ道』の「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」でも、馬を可愛いもの、戦うものではなく、食べて排泄をする動物として描いている。きれいな句の素材ではなく、なまの生き物として扱っているのが好きです。
堀本 むき出しの馬、という感じですね。
児玉 私は一句目が芭蕉の「いなづまや闇の方行く五位の声」。雷が落ちた後のふっとした静かな瞬間の真っ暗な中に、五位鷺(ごいさぎ)の怖い鳴き声が響く。落雷の後に取り残された、というような歌はJ‐POPでも聴いたことがないです。
堀本 「いなづまや」で視覚的に見せながら、終わりに向かって聴覚に訴えかける。稲妻の光を見ながらも、一方で闇夜に鳴く五位鷺に耳を澄ませているという、芭蕉の研ぎ澄まされた感性が鋭く感じられますね。
児玉さんの二句目は(上島(うえじま))鬼貫(おにつら)の「闇の夜も又おもしろや水の星」ですね。
児玉 光と闇で対比的に選んでみました。和歌だと夜空を見上げるのですが、ここでは池のような水たまりに映った星を覗き見ている。月ではなく「星」というのも好きです。
堀本 闇の夜なら直接星を見上げてきれいだな、というのが普通の感覚ですが、水に映っている星に視点がいっている。江戸時代だから闇も深くて水に映った星がよく見えたのかもしれませんね。下五(しもご)(最後の五文字)の落とし方が面白い。児玉さんの選句はやはり独特ですね。
僕の二句目は「岩鼻やこゝにもひとり月の客」。作者の(向井(むかい))去来(きょらい)は、月が照っていて岩鼻がある、そこにもう先客がいると詠んだつもりだったんですね。でも『去来抄』を読むと、芭蕉はこう提言している。「是(ここ)にもひとり月の客、と己(おのれ)と名乗出(いで)たらんこそいくばくの風流ならめ。たゞ自称の句となすべし」。
つまり、ここにもひとり月の客がいるぞと去来自身が名乗っていると解釈したほうが面白いと言っているんですね。これは作者も思いつかなかったことで、去来はハッとするわけです。俳句は特に余白が多い分、解釈の仕方で句の意味合いが変わるときがある。去来の句そのものもいいですが、芭蕉の鑑賞の力が際立った句でもあります。
児玉 堀本さんの三句目、(与謝(よさ))蕪村(ぶそん)の「鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門」。これ、本当にいいですよね!
堀本 僕も大好きなんですよ! 鮎がたくさん釣れたから友達にお裾分けしようと、夜更けの玄関先に行ったら、「寄っていく?」「じゃあちょっとだけ」ってなりそうですが……。
児玉 そうならないから、読んだときの衝撃が強い。
堀本 そう。普通は上がり込んで鮎を一緒に焼いて酒でも飲んで、となるはずが「じゃあな」って帰る。めちゃくちゃ粋ですよね。
児玉さんの三句目は宗因の「行ば三人の道ことにして 死罪流罪に又は閉門」。これはなぜ選ばれたのでしょう。
児玉 「口まねや」の「百韻(ひゃくいん)」(連歌や俳諧で百句連ねて一巻きにする形式)からです。この句には前後の文脈があって、三人別々の人生を歩んでいくと話が進んできたのに、急に全員違う罰を受ける。流れが突然現実的になる変化が鮮やか。「ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ」の最後に落とされるような衝撃を受けました。
堀本 独吟でしかも百韻だから、宗因はここで起伏をつけたかったんでしょう。このドキッとさせる展開も見せ場の一つになっていますね。
児玉 独吟しながら絶妙なタイミングでボタンを押しているみたい。そこにピン芸人の凄まじさを感じます。
堀本 『江戸POP道中文字栗毛』のなかで、俳諧を“マジカルバナナ文学”と呼んでいたこともそうですが、児玉さんのそういうたとえや言い換えがとても面白いんですよね。いつか、児玉さんと句会をご一緒したいですね。
児玉 私もやってみたいです。現代俳句をもっと知りたいと思っているので、これを機会にトライしてみたいです。
「小説すばる」2023年11月号転載