日米同盟に未来へのベクトルを
ここで、改めて考えておきたい。なんのための、米議会スピーチだっただろうか。
いま安倍総理が抱いた企図を要約しておくと、第一に、旧共産圏との対抗上生まれ、冷戦の産物だった日米同盟をこの際一新し、一気に未来へ向いたベクトルを与えること。
日米同盟を「希望の同盟」と呼ぶべし、という安倍総理直々の指示は、まさしくその狙いから出た。
ここで告白しておくけれども、「希望の」という形容が、当初わたしはなんだか気恥ずかしかった。“シュガーコーテッド”、「糖衣」的な感じを受けたからだ。わたしの心中から、内発的に出てきた表現ではない。あくまでも安倍総理が執心して、ああなった。
後知恵で言うならば、これはこれで、ほんとうに良かった。
「希望」というだけで、目線が未来を向く。向日性が出る。明るい。英語で言うと、アライアンス・オブ・ホープ。
アライアンス・オブ・コンビーニエンス(便宜上の同盟)ではないのだと、言外にだが、雄弁に示すこともできる。
演説の中に、「米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません」との箇所がある。
これはごく初期段階の草稿から残ったフレーズで、米国の、その最良の部分を米国人自身に思い出させ、自信をもてと促す応援のメッセージだった。
オバマ時代の米国は、世界の警察官という立場を放擲した。だからといって国内に引きこもり、不毛の対立あれこれにかまけて、柄にもなく冷笑主義のとりこになってもらったのでは困る。自信喪失のアメリカなど、世界にとってむしろ迷惑だ。
「希望」の力こそ、アメリカン・ウエイ・オブ・ライフの土台だったじゃないかと言い、それをbe動詞の時制をさまざまに変えて訴えたものだった。
第二に、日本の未来は海洋民主主義大国米国とともに切り拓くものであって、大陸勢力への接近によって得られるものではないと、国家の基礎を据え直すこと。
これは、マリタイム(海洋)・アイデンティティを固め直すことだったと言い換えてもよい。「おのれとはなにものか」規定しようとする「アイデンティティ・ポリティクス」の、ひとつの形だった。
近代の日本にとって、海へ行くか大陸に傾くかは、一見主体的選択の対象であるかに──二択問題ででもあるかのように、見えることがしばしばだった。
大陸には自ら対処すべき大きな脅威があり、それと同じくらい巨大な、裨益すべき可能性と利益がある。それに中国は日本と「同文同種」ではないか──。そんな呼び声は、国民心理のどこか基層に、通奏低音として響いている。
けれども現実はといえば、その種のロマンチシズムが入り込む余地など、実はない。
安倍総理は第二次政権発足早々「地球儀を俯瞰する外交」という方針を打ち出した。中国と、一対一のサシで立ち向かうことは有害にして無益、そもそも無理、という判断に立ったリアリズム外交をいう。
海洋民主主義国と地平をまたいで手を組み、志を結び、それで初めて中国の台頭に適切な間合いを取ることができる。──それが安倍流「地球儀俯瞰外交」の本旨である。
すなわちこの路線を追い求めるには、日米同盟の強化に次ぐ強化が不可欠であるうえ、日本国民のアイデンティティも、「コンチネンタル」ではなく、「マリタイム」にし、堅固にしておく必要がある。米議会スピーチは、それを内外に闡明する機会だった。
マリタイム・アイデンティティを確かなものとしてこそ、いわゆるFOIP、「自由で開かれたインド太平洋」という、安倍総理案出になるもうひとつの地政学的コンセプトの追求に、日本は資格要件において十全たるところを主張できる。
そして第三には、日米の愛憎相半ばした過去のいきさつに、戦後七〇年にして大きなエンドマークを打つことである。
第一、第二の、いずれも未来を向いた日本の路線選択と日米同盟の更新をこの際一気に進めるためにも、米国人がいまも抱く日本に対するわだかまりに、最終決着をつけておく必要があった。
以上をスピーチに企図として含めるならば、何をどんな順番で、どう言うかおぼろげながら見えてくる。
第三の点を打ち出すキーワードとして浮かんだ言葉は、「悔悟」だ。これの英訳として選んだのは、「リペンタンス(repentance)」だった。ここには、のちの章でもう一度立ち返る。安倍総理にとって、歴史認識の根幹に関わるところだったからだ。
文/谷口智彦 写真/shutterstock
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