お客様の叱責がきっかけで“呼び捨て”をしなくなった

──「デニーズ 東浅草店」 での思い出やエピソードは何かありますか。

今振り返ると「お客様にもパートアルバイトの方々にも恵まれていた」と感じています。長いデニーズ人生の中で、東浅草に勤務している時が一番大変だったと思っていますが、そのなかで意識していたのは「人に関心を持って、人を育てること」でした。

高校生や主婦などアルバイトとして働いてくれる方々を、「どうやって戦力化すればいいのか」ということを考えた際に、徹底的に関わってコミュニケーションを取っていくことしかないと考えていました。

そのため、一人ひとりのアルバイトの方々と向き合い、丁寧に対話を図ってきました。こうした働きかけを続けていくと、結果として近所にいい噂が広がっていくのが浅草という地域の特徴だと気付きました。そうした取り組みもあり、難易度の高いと言われていた店舗で6年という長い期間、店長の責務を全うできたのではないかと思っています。

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――下町ならではの苦労はありましたか?

苦労した点で言えば、浅草で毎年行われる三社祭ではアルバイトの方々がほとんど担ぎ手になるので、人員を確保してシフト表を作るのが大変でしたね。また、高校生のアルバイトの方に“呼び捨て”で指示をしていたら、お客様に突然呼び出されたこともあります。

「親御さんが大切に育てている、人様の子供を預かっているのに、名前を呼び捨てするのは失礼だ」と客席でお叱りを受けました。よく考えてみると、お客様の立場からするとお店で働いている人を呼び捨てで呼ぶのは気分を害してしまうなと思いましたし、上に立つ者として人を大切することはどういうことかを学ぶことができました。

この強烈な経験をして以来、私は30数年間一度も、一緒に働いている人たちの名前を呼び捨てにしたことはありません。

このように、さまざまな苦労や困難がありながらも、東浅草にお店を構える“地場の店長”として、地元のお客様に受け入れられ、温かく見守っていただけるようになりました。本当に東浅草店では多くのことを学ばせてもらいましたね。