女性ならば浴びるように言われる言葉

岸本 U野はそんなに内面を語る人ではありませんよね。ひたすら筋肉のことやトレーニングについて語っていて、ある種彼女が空洞みたいになって途中まで進んでいきます。空洞というのは悪い意味ではなくて、筋肉の話に薄っすらと彼女の内面が透けて見えるというか、その感じがとても面白い。でも途中で、弟の結婚相手との顔合わせで実家に帰るシーンがあります。そこでテレビに映る女性ビルダーを見ていた母親に「あんなムキムキにならないでよ?」と言われて、彼女が怒りますよね。そして帰りの電車内で「怒るという形で自分の考えを表明したことが、何やら愉快だった」と振り返り、そこから楽しいとか幸せだとか、自由だという言葉が彼女からだんだん出てくるようになります。その流れが感動的でした。

石田 今そう言われて初めてそのことに気づきました。確かにそうですね。自分は心理描写をそれほど書かないタイプかと思っていましたが、少しずつ出てきたものがあり、書いていくうちに慣れてきて、書く方法もわかってきたのかもしれません。

編集部 読み終わってみるとこの小説はジェンダーがテーマの一つだと気づきます。書き始める前に、こういう展開で書いていこう、という設計図は作られたのでしょうか。

石田 女性のボディ・ビル大会のポージングで、優雅なポーズをするある種の矛盾のようなものを書こう、とは思っていました。

岸本 作家と話をしていて「これは書き始めのときから設計図はあったんですか」と質問すると、ほぼ全員ないと答えるのですが、それは噓ではないかと疑っていて。ないと言ったほうが格好いいからではないかと思っているんですよ(笑)。

石田 自分も今、若干迷いました(笑)。

岸本 このあたりでこういうことを書こう、と覚書のようなノートは作っているんですか?

石田 あります。主人公U野、脱毛の後は日焼けして、その次はポージングのレッスンを受ける、という程度ですが。

岸本 でもその中で、これは絶対に書くと決めていたことはありますよね。

石田 ポージングのレッスンで、ハイヒールでずっこける場面は一番書きたいと思っていました。

岸本 U野というキャラクターは、顔も含めて最初から見えていましたか? 自分と重なるところが結構あったのでしょうか。

石田 率直に言うと、やはり多少は自分が出ているのかなと思います。あえて言うなら、地味な会社員がアイデンティティです。

岸本 小説の主人公としては相当に地味ですよね。そこがとてもいい。だから最初は話の中心が筋肉やトレーニングのことで、彼女自身はあまり前に出てこない感じなのが、なぜ彼女が筋トレをやっているのかが明らかになってくるあたりから、だんだんゾクゾクするようなスリルが出てくる。途中で、自分の気持ちとあまり向き合おうとしてこなかった、というようなことを彼女が言っていますが、それが少しずつ変化してきたのかなと読めました。彼女が本腰を入れて筋トレに励むようになり、ほぼ定時に退社しようとすると、職場の同僚男性が放つひと言がありますよね。

石田 「女性は大変ですね」ですね。

岸本 彼女は最初にO島から勧誘を受けたとき「別の生き物になりたい」と思います。そして最後の大会本番の舞台裏で同僚の発言を思い出し、再び「別の生き物になりたい」と切実に願う。実は最初読んだときに、こんなひと言で「別の生き物になりたい」とまで思うだろうか、ちょっと弱いのではないかと感じたんです。でもあらためて読んでみると、いやいや、これだと。日本で女性として生きていると、「女性は大変ですね」というような言葉は浴びるように言われますよね。

石田 言われます。

岸本 「非情この上ない」と書いておられましたが、あれは一見気遣っているようでいて、実は彼女を女性という雑なくくりに入れて、個として見ていない発言です。この国で女性として生きていると、日々そういう形のないもわっとした嫌な感じの抑圧、息苦しさを感じる。それがあのひと言に凝縮されていて、むしろこれでいいのだと思いました。たとえばもっときついセクハラとか、トラウマになるような酷いことがあって、それで強くなりたくて筋トレをする、という流れだと図式的過ぎて、読者にはかえって響きにくいのかもしれません。「女性は大変ですね」というフレーズは書き始めから浮かんでいたのでしょうか。

石田 これは最初から頭にありました。同情しているようで、ちょっと下に見ているでしょう、みたいな発言。その発言が出てくるときに、もっと具体的なエピソードがあったほうがいいだろうかとも考えましたが、あまりくどくど書くのは、こちらも読む側もつまらない気がしました。ここは賛否両論と思いますが、今そう言っていただけて嬉しいです。

岸本 何かこのもわっとした嫌な感じが「女性は大変ですね」というひと言に表れていて、うまいなと思いました。「そうか、女は大変か。きっと、それは正しいよ。だが、お前の言う「大変」と、いま私を突き動かしている「大変」は、恐らく別物だ」という部分は、めちゃくちゃ格好良くて拍手しました。他にも決めゼリフみたいなしびれるフレーズがたくさん出てきます。「身体は、一番正直な他人だ」とか。

石田 書く側が楽しんでいるフレーズですね(笑)。

岸本 「筋肉は年功序列だ」とかね。これは実際のトレーニーが言うような言葉なんですか?

石田 これもボディ・ビル業界では共通の認識で、続けた者が偉い、という意味だと思います。

編集部 トレーニーは言葉を愛する人が多いんでしょうか。

石田 これは私の主観ですが、ボディ・ビルダーには確固とした信念というか、名言が多い気がしました。外から見ると完璧なのに決してナルシストではなく、むしろ謙虚な方が多い印象です。

岸本 内向的なのかもしれませんね。黙々とトレーニングするような。自分の筋肉は唯一、自分で完璧にコントロールできるものですものね。

石田 努力次第なところはあると思います。個々の体質はあるでしょうが、一般にやればやるだけ成果が出ます。

岸本 先ほどU野が地味という話が出ましたが、彼女はとても質素ですよね。大会で着るビキニをメルカリで買おうとするし、YouTubeを気絶するほど見るのに絶対に課金しない。そういう質実剛健なところもとてもかわいくて好きでした。

石田 凡人らしさが出ていたら良かったです。

岸本 そうですね。でも怒りみたいなものからだんだんと彼女自身の内面が出てきて、最終的に決勝ではハイヒールを脱ぎ捨て、ピアスを取り、自分の思うままにポーズを決めます。そこで私もいっしょに拳を握りしめて、ちょっと泣けました。そのラストへの盛り上げ方も素晴らしかった。石田さんは大会を実際にご覧になったことはあるんですか?

石田 実は大変恥ずかしながら、YouTubeでしか見たことがないんです。

岸本 それでこれだけ書けるなんてすごい。大会へ向けての準備段階で、顔のピーリングや身体のタンニングをするところ、衣装合わせをする場面も面白かったし、大会本番の舞台裏も細かく書き込んでいて緊迫感に溢れていました。なのに、彼女がいざ舞台に出てきて演技するシーンはすっぽりと抜けている。これはわざとですよね?

石田 そうです。彼女はたぶん、舞台に上がったら無我夢中になって何も記憶がないだろうなと想像しました。

岸本 なるほど……! そのシーンをみっちり書いてしまうと、それまでの舞台裏の緊迫感が生きないかもしれない。だから場面がぽんと飛んで競技後に移っているのが、うまいと思いました。