秀長の死去、家康は単独で諸大名筆頭に
信雄・家康=秀長という序列はしばらく継続され、同十五年八月八日に、信雄が正二位・内大臣(任官は十一月か〈『公卿補任』〉)、家康・秀長は従二位・権大納言に昇進するが、序列は変化していない。
その後、同十八年に信雄が失脚して、辞官し、前内大臣の立場になると、家康・秀長が諸大名筆頭になった。
さらに同十九年に秀長が死去したことで、家康は単独で諸大名筆頭に位置することになった。妻朝日は前年の同十八年に死去していたが、家康の地位が変わることはなく、その状態は、秀吉が死去するまで継続された。
そのなかで慶長元年(一五九六)五月八日には正二位・内大臣に叙任されるまでになる。その時点で、前田利家(一五三九〜九九)が権大納言に昇進されて次点についてくることになるが、家康の政治的地位は他大名を凌駕し続けた。
また領国規模においても、家康は他大名を凌駕していた。秀吉に従属した際の領国高については、正確には不明であるが、「伏見普請役之帳」(「当代記」所収、前掲刊本六〇〜六頁)にみえる各国の石高と各大名の知行高が参考になる。なお同史料は慶長二年・同三年頃の作成と推定されている(白峰旬『日本近世城郭史の研究』)。
秀吉に従属した時点での家康の領国は、与力小名(木曽・小笠原・真田)の信濃における領国を含めて、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国であったが、信濃のうち海津領が上杉家の領国であった。同史料でこの五ヶ国の石高を合計すると、一三三万一八八四石になる。
このうち海津領の石高を一三万七五〇〇石とみて(慶長五年、森忠政への充行時のもの)、これを引くと、一一九万四三八四石となる。もちろんその間において検地などによる石高の増加があったとみられるものの、慶長二年・同三年時点にあわせれば、他との比較が可能になる。家康に次ぐ領国規模にあったのは毛利輝元(一五五三〜一六二五)であったが、その知行高は一一二万石であった。
これと比べると、家康の領国規模はそれを上回る、諸大名中随一であったことがわかる(ただし与力小名の領石高を差し引くと、一〇〇万石ほどであった)。