移民二世のアイデンティティと多様性の実現

小島 『M』のなかで、真人が自らアイデンティティの読み替えに成功したシーンとして、自分に振りあてられた「ステレオタイプな日本人の役」に対して、異議を申し立てる場面がありました。「人の言葉を馬鹿にするのは、その人自身を馬鹿にすることだ」と、真人がディレクターに向かって発言するところ。
岩城 ステレオタイプについては、私も書くかどうしようかと思ったのですが……なんだか最近、変なステレオタイプが広まってしまっている気がしていたんです。政府や企業が、ダイバーシティという観点から様々な人種を配置したコマーシャルをやっているでしょう。インスタントに「ダイバーシティを重んじていますよ」と表現するには、やっぱりステレオタイプが一番効果的なんですよね。みんなが「いろんな人種がいるな」ってすぐわかるから。でもそれによって広まるのって、けっこう典型的なステレオタイプなんです。それで真人もイライラしているのかな、とは思いました。
小島 でも、真人は自らそこに異議の申し立てをしますよね。彼の成長を感じたシーンでした。というのも、たとえステレオタイプな役であったとしても、自分に居場所が与えられることで安心してしまうことがあるじゃないですか。それは海外生活だけの話ではなく、たとえば飲み会でサラダを取り分けるような「女らしい」役を与えられることによって、居場所を得られて安心できる、というような話も同様です。これまで彼は「日本人」の役を与えられていた。当初はそれで安心を得られていたかもしれないけれど、『M』の真人はそこを自力で超えられた。他者から与えられたアイデンティティに甘んじるのではなくて、自らアイデンティティを読み直し、組み直していく。そうやって彼は与えられた役について「これはステレオタイプじゃないですか」と言い返すことができたわけです。私はこのシーンを読みながら「真人、成長したなあ」って、親心みたいなものが湧いてきてしまいました(笑)。
岩城 優しい(笑)。うちの娘を見ていても、自らのアイデンティティとは自分で作り上げていくものなんだな、と感じます。他者の目によって作られたアイデンティティを自分の中で作り替え、自分なりのアイデンティティを作り上げてゆく。そういう過程が成熟なんだなと感じます。
小島 しかも真人がやったことって、すごく勇気が必要な行為です。言い方によっては、相手に「おまえはレイシスト(人種差別主義者)だぞ」と言ったことになるわけだから。多文化共生社会でレイシストと相手に言う、あるいはレイシストと言われるって、非常に深刻なことです。
岩城 そうですね。
小島 でも、その危険性も恐らく理解した上で、彼はステレオタイプに申し立てをした。しかも結果的に、レイシスト呼ばわりしたと受け取られずに自分の意図を相手に伝えることができた……彼が成長した証ですよね。他者からアイデンティティを与えられてきた少年が、それを自分で読み替え、しかも最後は相手の価値観を更新するという能動的なアクションを成功させた。とても象徴的なシーンです。
岩城 ありがとうございます。そこは一番書き換えた場面かもしれません。
小島 そうでしたか。やっぱり、難しいところですよね。
岩城 アイデンティティの問題は、真人のような移民二世、あるいは一・五世、つまり小さい頃に移民としてやって来た人にとって、とても重要な問題です。彼らに共通するのは帰属意識がないことなんですよ。「自分はここで生まれて育ったけど、ここの人間ではない」という感覚が、彼ら彼女らの呪縛になってしまう。これは恐ろしいことです。「日本人でもない、オーストラリア人でもない、どこの人でもない」という感覚がつきまとうんですよね。たとえ日本に帰っても、「帰国子女」とか変な日本語になってしまうし、どこへ行っても「どこから来たんだ?」と言われる。だからこそ彼ら彼女らは、たとえその国で生まれていても、「自分はこの国の人間だ」と言わないんです。自分自身について説明する必要に迫られると、「父と母が○○から来ました」という説明の仕方をする。そういう方々を見ていて、彼ら彼女らが抱える独特の孤独があるのだ、そしてその孤独はその人たちの表現する世界でもあるのだ、と感じるようになりました。
小島 最近は、ダイバーシティを重視するグローバル企業などでは「ダイバーシティ&インクルージョン&ビロンギング」が重要だと言われているそうです。「ダイバーシティ&インクルージョン」は「多様性と包摂性」のこと。つまり、多数派の人がいろんな少数派の人を包摂してあげましょう、という意味です。でももうひとつ重要なのは、「ビロンギング」つまり「帰属性」。少数派の人々が、自分の居場所はここだ、ここが一番心地よく伸び伸びできる場所なんだと感じられるかどうかです。「帰属性」があってはじめてその人は力を発揮できる。これは企業だけでなく、おそらく社会運営でも、家族でも同じですよね。
岩城 本当におっしゃる通りだと思います。
小島 「少数派を包摂したよ、制度つくったよ、オーケー」じゃないんですよね。少数派に対して「包摂されて、実際はどうですか、居心地がいいと感じますか」と耳を傾ける必要がある。二世や一・五世の人々が、自分のアイデンティティを考えるうえで、「自分はもともと違うところから来たけれど、今の自分の居場所はここだ」と思えるまでやるべきことがありますね。
岩城 そうですね……でも難しいなと感じるのが、ダイバーシティにはかなり制約も伴うこと。最近、「これはしてはいけない」「この表現はこういう人に対してアグレッシブになる」とか、表現の制約もかなり増えました。うちの夫は小学校の先生なのですが、「注意点の講習だらけで息苦しい」と言っています。一表現者としては、ダイバーシティによる制約が多くなりすぎていないかなと、ちょっと懸念するところもありますね。これはだめ、あれもだめとなると、そもそも表現したいことがある表現者にとって、非常にしんどいことになる。最近はみんなびびりながら、これは大丈夫なのか? と言っている印象があります……。ダイバーシティの最終目標は「どんな人でも住みやすいところにする」ことなので、その目標から外れないといいな、と感じます。

真人とアビーの葛藤の対比

小島 『M』において、真人と同じくらい重要な人物として登場するのが、アルメニアにルーツを持つアビーという女の子です。真人は彼女との衝突とコミュニケーションを通じて自分のアイデンティティを見つめなおしていく。私、なぜアビーをアルメニア人という設定にしたのか、岩城さんに伺いたかったんです。実はかつてロケで一度アルメニアに行ったことがあって。アルメニアは複雑な成り立ちを持つ国ですよね。
岩城 息子の友達にアルメニア人の子がいたんですよ。お話を直接伺ったわけじゃないのですが、彼女が話しているのを聞いて、かなりしんどそうだなと感じていたんです。その後調べていったら、やはり同族結婚が当たり前のカルチャーで……。オーストラリアに来たらいろいろ複雑な思いをするだろうな、と。息子の友人には後日談があって、その後彼女は好きな子ができたのですが、そのお相手の親御さんのどちらかがトルコの方だったそうなんです。
小島 ああ……。たしかオスマントルコ帝国の時代に大虐殺事件が起きて、アルメニアの人たちがたくさん殺されたんですよね(編集部注:19世紀末~20世紀初頭、オスマン帝国における少数民族であったアルメニア人の多くが、オスマン帝国政府による強制移住や虐殺の犠牲になった)。
岩城 そう。だから彼女はそれを聞いた瞬間に相手と別れた、という話を聞きました。
小島 なんと……。
岩城 彼女の場合はそうだったんです。

――日本から来た真人はステレオタイプについて悩んでいますが、アビーにはステレオタイプすらありませんよね。

岩城 真人の苦しみとアビーの苦しみはまた違うものですよね。アルメニア人のアビーにはステレオタイプさえなくて、安心できる役割も存在しない。みんなアルメニアのことを知らないんです。さっき小島さんがおっしゃった「ビロンギング」について、彼女はかなり苦しんだのだろうと思うんです。アルメニア人って、見た目は俗にいう「オージー」と変わらない白人ですから。
小島 見た目が白人だと、内面的・文化的な孤独が可視化されづらいですよね。
岩城 そう、可視化の問題です。見えないものも貴重なのに、見えることばかりが広がってしまう。みんな、見えるものしか見ようとしない。もっとそのあたりは、うまく書けたらよかったなと思うのですが。
小島 私は真人とアビーがよい対比になっているなと思いました。アビーは白人の見た目だからこそ、内面の葛藤が可視化されづらいという悩みがある。真人はアジア人の見た目だから、ステレオタイプ化され、自分の葛藤がステレオタイプに吸収されてしまって可視化されないという悩みがある。両方とも実は「可視化されない」ことについての悩みなんだけれども、その成り立ちが見事な対比になっていますよね。
岩城 ありがとうございます。
小島 しかも、宗教も歴史も、アルメニアと日本の文化はかなり異なるところがあるでしょう。二人のバックグラウンドにある母文化の対比にもなっているところがすごいなあと思いました。
岩城 うわあ、すごく読み込んでくださっている……!