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犬橇だけは手を出さないと半分決めていたのだが…

とはいえ、犬橇が開始にハードルの高い活動なのはまちがいない。

ハードルというのは、ひとつには経済的ハードルがある。

当たり前であるが、犬橇をやるには、まず犬を飼わなければならない。それも一頭とか二頭ではなく十頭前後の犬が必要である。しかもグリーンランド犬は体重が三十キロから四十キロにもなる大型犬で、寒い冬はカロリー消費も人間なみ、一日一キロ以上の肉をバクバクとむさぼる。

10頭飼ったら年間の維持費はかるく100万円超え。犬橇を始めるハードルの高さと犬集めの苦労_1
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おまけに僻地であるグリーンランドは非情なほどの物価高で、感覚的に日本の三倍から四倍だ。犬橇をやらない夏のあいだも、村の誰かに犬の面倒を見てもらわなくてはならず、その世話代も高くつく。十頭飼ったら、それだけで年間の維持費はかるく百万円を超えるだろう。

経済的な負担ばかりではない。活動が―もっというと人生が―犬に縛られるのも大きなハードルだ。

たとえば私の場合であれば、三月から五月に長期犬橇漂泊行をやろうと目論んでいるわけだが、これをやるには、その前に犬を訓練して、長期旅行に耐えられるだけの肉体をつくらないといけない。この訓練期間もふくめると一月にはシオラパルクに行く必要があり、日本を離れる期間は五カ月以上になる。その間、まともに執筆もできなければ家族とも会えない。二拠点生活といえば聞こえはいいが、どちらかといえば遠洋鮪漁師に近い生活だ。

時間的な面だけでなく、活動も犬に拘束される。面倒を見る必要から毎年かならず現地に行かねばならず、今年はグリーンランドでの犬橇行ではなくカナダの大河川をカヌーで下ろう、みたいな気儘な選択もゆるされなくなる。ほかの活動を断念せざるをえないのである。

こんなにカネがかかって不自由な境涯におちいる活動など、よほどのことがないかぎり手を出すはずがない。

実際、私もそれまでは犬橇だけは手を出さないと半分決めていた。北極圏以外にもいろいろと行きたいところや、やりたいことがあるのに、犬橇をはじめたら活動をそれ一本にしぼらないといけない。家庭的にも娘がかわいい盛りで、できるだけ長く一緒にいたいという親の煩悩もあるし、家計が苦しくなるのも目に見えている。

これら諸々を理性的に考えた場合、犬橇はあまりに非合理的な選択であり、冷静に判断したら手を出すべきではないことは自明であった。なので、犬橇は、まあちょっとないかな……とずっと思っていた。シオラパルクには山崎哲秀さんという先輩探検家が、犬橇のために毎年、半年ほど滞在しているが、その姿を見て、まあよくやるな、と半ば感心、半ば呆れていた。

それなのに、フンボルト氷河での海豹狩り失敗がきっかけで、私のなかでは、もう犬橇しかないとの決断がくだされ、引き返せなくなったのだ。