見落とされる作家性と、フラットな視点の不足

――藤本さんは映画好きとしても知られていますが、映画ファン目線から見たときに「ジブリ作品」ってどういう特徴があると思いますか?

藤本 「実は作家性が強い作品ばかりなんだけど、テレビ放送を通して国民的作品になり過ぎた結果、みんながその作家性に気が付きづらくなっている」というところですね。例えば『サザエさん』を映像的に見ると、カメラが常に三人称視点で奇抜な構図がないという特徴があるんですけど、そんなことは誰も考えないですよね。

――考えないですね。

藤本 リアリズムの観点でジブリ作品を観ると、セリフにはそこまでリアリティーはないものが多いですよね。現代においては誰も言わないような「〜〜だわ」みたいな女性口調も多いですし。とくに宮﨑駿監督作品の場合、登場人物みんなが宮﨑駿チックな人物になってます。例えば、キャラクターがおもしろいことを言った後に、それを受けた女性が「えっ、○○? アハハハハ」って、相手が言ったことを反復して精査してから笑ったり。

――なんとなく当たり前のものとして受け止めてましたが、言われてみれば、かなり特徴的な受け答えですよね。

藤本 僕も含めてなんですけど、みんなそういうジブリの作家性がよく分からなくなっていて、今改めて作品の文法とか作劇を語ろうとしても、けっこう難しいんですよね。そして、そこがおもしろいと思います。

――藤本さんが指摘したように表現の中にある作家性が見落とされがちな一方で、ジブリ作品を語るにあたっては、宮﨑駿監督、高畑勲監督、鈴木敏夫プロデューサーの3人とその周辺人物たちの関係性は切っても切り離せないという側面もあると思います。

藤本 そうですね。とくに「宮﨑さんのフィルターを通した、高畑さんの目線」がどの作品にも流れている感じがします。でも、その一方で「そういうジブリ作品の見方は無粋なんじゃないか」って気もしているんですよ。そこで僕らが使う「視点」って、鈴木敏夫さんが書いた本や、ドキュメンタリー作品を通して僕らが受け取ったものにすぎない感じがするっていうか。

写真/shutterstock
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――評伝などの書籍はもちろん、ドキュメンタリー映画も誰かの視点で撮影・編集される以上、ある種の創作ですからね。

藤本 僕自身もそういう「宮﨑駿、高畑勲、鈴木敏夫たちの物語」的な視点でジブリ作品を観てしまう部分はあるし、その楽しさもあるんですけど、なるべく何も考えないで観るようにしています。

――「作品の中で描かれているものが全て」という観方ですよね。

藤本 そうです。特にジブリに関しては、できるだけそういう視点から観たいと思っています。

――「特にジブリに関しては」というのは、他の作品よりも周辺情報が多いからですか?

藤本 はい。『アメリカン・スナイパー』みたいな映画だったら、制作当時のアメリカの社会情勢などを踏まえて観たほうが楽しめるとは思うんですけど、ジブリの場合はちょっとまた別という感じがします。実際に、そういうことを考えずシンプルに作品を観るだけでおもしろいですからね。