明石家さんま、島田紳助に憧れる子どもだった
お笑い芸人の実力を、アスリートのようにデータで表すのは難しい。野球選手であれば、体の大きさ、ストレートのスピードや防御率、打率など参考になるものがある。お笑い芸人の面白さや将来性を測る基準は、あってないようなものだ。
スポーツ界には、オリンピックに出場するような選手を育てるカリキュラムがある(もちろん、誰もがうまくいくわけでない)。10代が出場する全国大会もあるし、プロ野球チームがアカデミーを組織して有望選手を囲い込む。
しかし、芸人の育成法は確立されているとは言いがたい。だから、多くの芸人志望者は養成所を目指すのだ。お笑いで身を立てようと覚悟を決めた者たちが切磋琢磨することで、一流の芸人に育っていく。
小学2年生のときに「お笑い芸人になる」と決めた中北朋宏はその道を目指した。憧れたのは明石家さんま、島田紳助――1980年代からトップを走るタレントだった。
中北は言う。
「給食の時間に、友だちを笑わせることを生きがいにしているような子どもでした。学校の行き帰り、どうすれば牛乳を口からふき出させられるかを真剣に考えていましたね」
しかし、地元の三重県伊勢市には中北のことを理解してくれる仲間はいなかった。10代半ばになると、ひとりで人気芸人たちのネタを研究するようになった。
「みんなが浜崎あゆみの曲をMDに入れて聞くように、僕はお笑い芸人のネタを聞きながら通学していました。
中川家さんの漫才を文字に書き起こして構造を研究したり、ナインティナインさんのラジオをずっと聞いていたり。ひとりであれこれ考える毎日でした。もちろん、学校ではものすごく浮いていました」