自衛隊という世界有数の戦力を有する組織が抱える病い
だが、等松論考には、そうした皮相で党派的な反応でかたづけるには深刻に過ぎる事態が指摘されている。それは、単に倫理・教育上の問題であるのみならず、防衛力の減衰に直結しかねない重大事なのだ。
さらに、そこで暴露された、さまざまな問題は、病気にたとえるならば「症状」であり、その「病根」は、自衛隊という世界有数の戦力を有する組織が、しかし、軍隊ではないという、矛盾した存在であることではないかと、筆者は憂慮する。
むろん、防大の綱紀粛正(こうきしゅくせい)【8】、制服ならびにシヴィリアンの教官(各省庁が防大を島流しの場にしていることも放置できまい)人事の制度改革は、可及的速やかに実行されるべき対策であるけれども、それらは、いわば「対症療法」であろう。「病根」を抜本的に断たなければ、いずれまた「症状」は別のかたちで出てくるはずだ。
将来の自衛隊幹部を育成する教育機関、すなわち、組織がその機能を発揮するための、死活的な重要性を持つ部署に、なぜ不適切な分子が配置され、敢えていうなら防衛力の毀損につながるような悪影響をおよぼすことが許されているのか。
諸外国の士官学校に相当する存在である防大が、官僚主義的に運営され、規律厳正とはいいがたい状態におちいっているのは、何ゆえなのか。
防大、また、多くの高級幹部養成機関の指導者たちが、ショーヴィニズム【9】、もしくはアナクロニズム【10】を剥き出しにした人士を招いて、彼ら彼女らの講演を幹部自衛官に聴かせるのは、いかなる理由からなのか。
このような現象が生じる根源には、自衛隊に、その存在意義の規定、直截にいえば、戦う目的が明示されていないことがあると思われる。今さら指摘するのも馬鹿馬鹿しいが、自衛隊は、民主主義を奉じる日本国民の自由と繁栄に対する脅威を抑止し、不幸にも有事に突入した場合には、それらを武力を以て守ることを任務とする「軍隊」であろう。自衛官は入隊にあたり「服務の宣誓」を行う。その核心は「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託に応える」点にある。
しかるに、日本国憲法が戦争の放棄と軍隊の非保有を定めているとの大前提のもと、自衛隊が存在する目的は曖昧なままとされ、自衛官が有事において命懸けで任務を遂行する理由づけ、動機づけも、形式的・表層的にしか与えられなかった。
とはいえ、おのが存在意義を確信できず、目的もあきらかにされないまま、命を的に懸けることなどできるものではない。何らかの規範が必要である。