設楽ヶ原(したらがはら)で決戦が始まる
同年5月、武田軍の攻撃が始まった。猛攻撃が連日続くが、籠城兵は必死に防戦し武田軍を撃退。しかし、やがて劣勢となり、武田軍に兵糧庫も奪われた。貞昌以下籠城兵全員が本丸(ほんまる)に退くと、勝頼は兵糧攻めに出た。
5月14日、貞昌はこの窮地を脱するため岡崎城(愛知県岡崎市)の家康のもとへ伝令を送り援軍を求めることにした。そこで伝令となったのが、足軽の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)だ。強右衛門は敵の包囲網を掻い潜り岡崎城にたどり着くと、家康に長篠城の窮状を訴えた。
すると、家康は信長に救援を要請。信長はただちに3万の軍勢を率いて出陣した。家康も8千の兵力を率いて出陣し、計3万8千の連合軍が長篠へと向かった。18日、連合軍は長篠城の西方に位置する設楽ヶ原(新城市)に着陣(ちゃくじん)すると、武田騎馬隊の攻撃に備え、陣の前面に土塁(どるい)や馬防柵(ばぼうさく)(騎馬の侵入を防ぐ柵)を構えた。
一方、連合軍の到着を知った武田軍は、本陣内で対応を協議。山県昌景(やまがたまさかげ)や馬場信春(ばばのぶはる)など信玄以来の重臣らは連合軍の大軍との戦いを避け撤退することを主張した。しかし、跡部勝資(あとべかつすけ)や長坂長閑斎(ながさかちょうかんさい)は決戦を強硬に訴え、勝頼もまた決戦を望んだ。
19日の夜、勝頼が主力部隊を設楽ヶ原へと進軍させると、翌日の夜、家康は重臣・酒井忠次(さかいただつぐ)率いる別動隊に武田方の付城・鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)(新城市)の奇襲を命じた。この別動隊の奇襲によって主力部隊の後方が混乱した。すると、士気が上がった籠城兵も城を出て攻撃に加わった。
そして、21日の早朝、設楽ヶ原でついに両軍が激突する。従来、この長篠の合戦は武田騎馬隊の怒涛のような波状攻撃を、信長考案の鉄砲隊の三段撃ちで撃破したというのが定説だった。しかし、近年の研究では騎馬軍団の波状攻撃も鉄砲の三段撃ちもなかったという説が有力だ。ただし、連合軍の鉄砲戦術が武田軍の襲撃を阻んだことは間違いないとされる。また、馬防柵の効果も大きかったという。
この合戦で武田軍は山県昌景・馬場信房・内藤昌豊(ないとうまさとよ)など多くの勇将が討ち死し、武田軍は約一万人の死傷者を出した。大敗した勝頼は敗走し、連合軍は長篠城の落城を防いだ。