「確固たるアイデンティティ」とか「自分らしさ」など無用
前述した「俺は俺の事がわかっている」などと豪語する人間に限って、写真も録音も嫌う。なぜなら、そこには自分が認めたくない自分の嫌いな部分があるからだ。しかし、本人が短所だと思っていることでも、他人から見ればそれが長所である場合もあるし、逆もある。
つまりは、本人が理解している自分なんて所詮「あなたという個人が主観で、見たいものしか見ないようにして作り上げた虚像」にすぎないのであって、そんなものを「自分らしさでございます」なんて堂々といい放つ時点で、「まったく自分のことがわかっていない」のである。むしろ、そんな虚像に取りつかれて、周りにその虚像を押し付けたりする人間の方が社会性が欠落している。
つまり、「確固たるアイデンティティ」とか「自分らしさ」など無用なのである。
必要なのは、自分というものは決して唯一無二の存在などではなく、たくさんの自分の集合体なのであるという理解をすることである。
十人十色という言葉がある。人はそれぞれ違うよね、という意味合いで使われるが、人間は決して一人一色ではない。一人の中に多くの色を内包しているのである。
すべての人間は多種多様な色を持つモザイク型
たとえば、あなたが無垢の真っ白の状態だったとしよう。そこに、赤い色を持った人と接続した。そうすると、あなたの中に赤の成分が注入される。黄色の人と接続すれば同様に黄色が注入される。しかし、白に赤が注入されたからといって、白と赤が混じり合ってピンクになるわけではない。絵具ではないのだ。
あくまで、あなたの白の構造の中に赤の要素が付加されるのである。黄色もまた付加される。生きている間にたくさんの人と接続するだろう。そのたびに様々な色が付加されていく。それは決して混ざらない。が、モザイク模様のように、あなたの中には彩りができ上がっていく。わかりやすく説明するために単純化したが、そもそも真っ白な人、真っ赤な人などという単色人間は存在しない。すべての人間は多種多様な色を持つモザイク型である。
そうしたモザイク同士で接続することで、互いに違う色を取り込み合いしていく。それが、「接続するコミュニティ」における人のつながりの重要なところで、自分の中に新しい自分が生まれるというのは、そういうことである。
そして、混合ではなく、それぞれがモザイクとして独立の色を放つがゆえに、組み合わせによって「新結合」という自己のイノベーションが起きるのである。何色にもなれるのである。