「米国がやるから日本も研究を」
という東大の発想
ハンセン証言をきっかけに、「グローバルな環境問題に取り組むべき」という圧力が一気に高まりました。私自身、MIT(マサチューセッツ工科大学)のポスドク時代にそれを実感したことがありました。
同じ地球物理学を専門とする東大の先生に「酒井さんもこの研究に協力してくださいよ」と言われたテーマが、まさにいまでいう地球環境問題に直結するものだったのです。
そのとき私が取り組んでいたのは、流体力学の不安定問題というもの。専門的になりすぎるので詳しくは説明しませんが、環境問題とはとりあえず何の関係もありません。単に「オモロい」からやっていたことです。MITのボスには「サイエンスと名前がつけば、何をやってもいい」と言われていました。
その研究が楽しかったので、東大の先生に言われた研究テーマには、あまり興味が持てません。そもそも、どうして自分がそんなことをやらなければいけないのかもわかりませんでした。
しかし東大の先生は、「米国の研究グループがこのテーマをやろうとしている。だから日本もやらなければいけないんですよ」と言います。まさに敷かれたレールに乗ろうという話ですから、こちらはますますやる気になりません。
しかも、彼が言う「米国の研究グループ」のリーダーは、私のMITのボスのボスのような存在の教授です。その教授は「この観測計画は楽しいからやるんだ。楽しくなきゃやらないよ」と言っていました。同じMITの建物の中にいる私に、一緒に研究しようとはひとことも言わなかったのです。
ここには、じつに端的に、東大と京大の役割意識の違いが表れているようにも思います。国内ナンバー1の大学は、欧米の動向を横目で見ながら走らざるを得ない宿命を背負っている。
それに対して、「自由の学風」を掲げてまわりを気にせず好きにやれるのが、ナンバー2というポジションです。どちらが正しいという話ではなく、これは両方なければバランスが取れません。
自分の思い出話が長くなってしまいましたが、そうやって欧米の敷いたレールに乗ろうとするのは東大だけの特徴ではなく、日本社会全体の癖のようなものでしょう。明治維新以来、日本は欧米に「追いつけ追い越せ」でやってきました。
「もはやそんな時代ではない」と、頭ではわかっている人は多いと思います。でも、つい「欧米が何をしているか」を基準に物事を考えてしまう。
SDGs自体、日本も含めた国連の場で決まったものとはいえ、日本人にとっては「舶来品」のような印象が拭えません。そのため、ローカルな持続可能性よりもグローバルな持続可能性─その中でもいちばん大きな地球環境問題─に目が向きやすいのではないでしょうか。
文/酒井敏 写真/shutterstock