軍司令官・牟田口廉也を取り巻く人間関係

日本軍“史上最悪の作戦”インパールの惨敗を招いた「恥の意識」と「各司令部の面目」_2
写真はイメージです

インパール作戦といえば、牟田口廉也の特異なキャラクターが大きく取り上げられるが、それと同時に彼を取り巻く人間模様も深刻な問題を巻き起こした。まずはビルマ方面軍司令官の河辺正三(富山、陸士一九期、歩兵)と牟田口の関係だ。

広く知られているように、昭和十二年七月の盧溝橋事件に際して現地にいた支那駐屯歩兵旅団長が河辺、同歩兵第一連隊長が牟田口だった。これからあの二人は親しい関係にあると見る人も多かった。しかし、中国軍に一撃を加えるべきとの積極策を主張する牟田口を抑えるのに河辺は苦労し、それから二人の仲はしっくり行かず、それがビルマにまで持ち込まれたとも思える。

インパール街道をコヒマで遮断したものの、補給が届かないと独断後退をあえてした第三一師団長の佐藤幸徳(山形、陸士二五期、歩兵)と牟田口の関係も古い。この二人は昭和6(1931)年ごろに結成された軍内結社の「桜会」の主要メンバーだった。

牟田口は参謀本部をまとめ、佐藤は会員規約を作成した。昭和9(1934)年に第六師団参謀に転出した佐藤は、九州各地で過激な講演を重ねていたが、これに厳重注意をしたのが参謀本部庶務課長の牟田口だった。これで二人の関係は悪化し、それをインパール作戦まで引きずった形となった。

第一五師団長の山内正文(滋賀、陸士二五期、歩兵)は、早くから有望株として期待された人だった。陸軍大学校を卒業してすぐに参謀本部第二課作戦班の勤務将校に選ばれたのだから、並の秀才ではない。そして7年にわたるアメリカ駐在、米陸軍の指揮幕僚課程を修了した数少ない一人だった。ところが駐米大使館付武官のとき、結核に罹患したようで健康に勝れないままビルマに出征し、ようやく歩けるという病状だった。そして昭和19年8月にビルマで陣没した。