日本一だらしないボクシング部主将

大学入学後も中嶋の競技熱は低いままだった。

主将として部室には顔を出すが、「合同練習では『リーグ戦頑張るぞ!』とかけ声だけして、練習が終わるまでリング横で寝てました」と相変わらずだった。寝坊で計量失格となったときは、さすがに樋山監督も呆れて2か月以上口を聞いてくれなかった(寝坊の理由は2日酔いだったがそれは言えなかった)。2学年下で部員だった弟からも、たびたび「一輝、ほんまにちゃんとして」と怒られた。そう言われると「ごめん、帰るわ」としゅんとして帰った。

大学ではボクシングを辞めることばかり考える日が続いた。

それでも中嶋の素質はまだ錆びてなかった。「運がよかっただけ」と話すが、3年生のときに出場した2015年の国体では優勝している。

大学卒業後はとくにこだわりもなく、関西のジムでプロボクシングを続ける予定だった。しかし卒業前にSNSを通じて一通のメッセージが届いて、運命が変わった。

「大橋会長と共通の知人からジムにこないかというお誘いのメッセージでした。でも、自分はパートを掛け持ちして、女手ひとつで育ててくれたおかんのことが心配だったんですよ。それで卒業後は働きながら家にお金を入れようと思ってたんです。

大橋会長にはそういう経済的な事情も全部話したら、じゃあ初めての寮生として住むところを用意するからそこに入ればいいと。また、キッズのトレーナーとして雇ってくださるので収入面もサポートしてくださると。それで大橋ジムにお世話になることに決めました」

これなら毎月仕送りをしながらボクシングを続けられる。しかも大手ジムで。少し気になったのは、いつかリベンジをしたいと思っていた井上尚弥が同じジムにいたことだった。

「でも、まず自分は自分で頑張ればいいと。『ぱっと世界王者になって金稼いで帰ってくるわ』と、おかんに話して横浜に出てきました」

しかし、ここからも平坦な道のりではなかった。

(#2へつづく)


取材・文/田中雅大 撮影/青木章(fort)

#2 「奈良判定」で後ろ指をさされた悪童ボクサー・中嶋一輝はその後どう生きているのか。山根騒動で日本中から「悪者」として注目を浴びても、気にしない鋼のメンタルを支える2つの存在