堺の商人を軸にすることで
新しい信長像が見えてくる
今年の三月二日、第七回吉川英治文庫賞が、上田秀人〈百万石の留守居役〉シリーズに決まった。同賞は文庫本で五巻以上続くシリーズを対象としているので、文庫書き下ろし時代小説の世界で活躍する著者の受賞は遅すぎたくらいである。
時代小説の人気シリーズを幾つも書き継いでいる著者は、第十六回中山義秀文学賞を受賞した『孤闘 立花宗茂』など歴史小説にも傑作が多い。吉川英治文庫賞の受賞直後の刊行となる本書も、織田信長を題材とした歴史小説である。
著者は既に全二巻の『天主信長』などを発表しているが、本書は、堺の自治組織を指導した納屋衆のひとり今井彦八郎(宗久)の視点で信長を捉えることで新機軸を打ち立てている。
著者の歴史小説は合戦の迫力も魅力だが、商人が主人公の本書は合戦が描かれることはない。ただ信長の成長に賭けた彦八郎が、諸大名の動きを探って戦略を練ったり、前線から遅れて伝わる戦況から次の手を考えたりするので、息詰まる頭脳戦には圧倒的なサスペンスがある。
黎明期の茶道と政治の関係や、鉄炮が高価だったのは技術流出を防ぐための必然だったなど、商人を軸にしなければ見えてこなかった歴史解釈も秀逸だ。
堺は大大名の三好家との結び付きが強く、信長の才能を見抜いた彦八郎が他の納屋衆の説得に苦労する場面が少なくない。この展開は、古い商慣習に固執してアメリカやアジアのベンチャーに市場を奪われた現代の日本企業を彷彿させるので、暗い気分になる読者もいるだろう。
信長は、松永久秀、別所長治、荒木村重らに叛かれた。信長が認める名将だった彼らはなぜ一斉蜂起せず、五月雨式に決起して各個撃破されたのか? この謎から著者は、今までにない本能寺の変の真相を導き出していく。その背景には、武家にとって最も重要な家の存続を脅かすほど過酷な競争への不満があったとされる。この状況は現代も変わらないので、本書のテーマは重く響いてくる。