NSC退学後は牛丼屋や警備員のアルバイト
芸人を夢見た栗城さんの足跡をたどって、私はカメラマンを伴ってNSC東京校に向かった。取材のカメラを見た生徒たちの反応は驚くほど素早かった。小躍りしながら近づいてきて「テレビ大好きです!」とレンズに顔を押し付ける者。ムンクの絵「叫び」のようなポーズを決めて撮られるのをじっと待つ者。校内のテンションの高さは尋常ではない。
事務の責任者が、過去の入学願書のファイルをテーブルの上に広げてくれた。栗城さんが入学したのは2001年だ。ボールペンで書かれた自筆の願書が残っていた。受験番号『189』。制服を着て生真面目な表情を浮かべた顔写真が貼られている。
「希望コース」の欄には、お笑い、俳優、構成作家、キャスター・リポーター、DJの五つの選択肢があり、「お笑い」に○がついていた。「応募したきっかけ」は、『才能豊かな相方を探すため』。「自己PR」の欄には、『高校1年生の頃から自作の喜劇を作り、3年生まで優秀な成績を残し、学祭で活躍して来ました。将来はお笑いとアートを融合した新しい笑いを追求したいと思います』とある。
事務の責任者は関西弁で話す男性だった。
「この方、途中で退学してはりますね。NSC東京の第7期ですわ。同期に○○や△△がいてます」
○○さんも△△さんも私は知らなかった。先輩や後輩にはテレビで看板番組を持つ売れっ子がいたが、取材当時で芸歴7、8年になるこの代からはスターが出ていなかった。
NSCを退学した栗城さんは、牛丼屋や警備員のアルバイトをしながら、川崎市高津区にあったアパートで次の人生の構想を練った。
「しかし、驚きですねえ、登山家になられたとは……すごいなあ」
NSCの事務責任者が、興味深げに願書の写真を見つめていた。
私の取材から2年後の2011年、栗城さんはこのNSCを運営する「よしもとクリエイティブ・エージェンシー(現・吉本興業株式会社)」と業務提携を果たす。ある意味、十代のころの夢を叶えたのだ。
当時の新聞を調べてみると『きっかけは、たまたま同社幹部と栗城氏が知り合ったことだった』とある。登山映像の管理やメディア対応、バラエティー番組などへの出演をテレビ局に働きかけることが提携の内容だとも書かれている。
現在の同社「文化人」担当マネージャーに聞いてみた。
「提携の経緯がわかる人間はもう誰もいないんですが」と前置きした上で言った。
「私が担当になってそこそこ経ちますけど、映像の管理は栗城さんの事務所の方でやっています。テレビ番組への出演交渉も、事務所直接ですね。うちが毎年必ず栗城さんにお願いしていたのは、新入社員への講演です。最後にエベレストに発つ少し前にもお願いしました」
2018年4月9日の講演が最後だったという。出国は4月17日だった。
文/河野啓 写真/shutterstock